第14話:異世界の服と貸し竿屋
ウェルズの中央区から区画門を抜け、商業区へ入ってすぐ。
観光客向けの中級宿〈旅鳥の止まり木〉は、三階建ての建物だった。
その二階に借りている一室で、俺は洗面台の鏡に映る自分の姿を眺めていた。
【イースト:首を傾げています】
「あぁ、ごめん。考え事をしていたんだ」
鏡越しにイーストへ答え、着ている服の裾を軽くつまむ。
「実はこれ、借り物でね。ニナのお父さんの服なんだ。いつまでも借りたままというわけにもいかないし、そろそろ自分の服を用意しようと思って」
イーストは自身のスカートの裾をつまみ、俺の真似をして眺めている。
「この街に来てから、ずっと仕事続きだったんだ。今日は丸一日空いているし、俺も買い物に出てみようかな」
【イースト:目を輝かせています】
昨日、ニナと一緒に買い物をしていたイーストは、よほど美味しい思いをしたのだろう。
まだ見ぬお菓子を想像したのか、口元には早くもよだれが浮かんでいる。
「もちろん、甘いものも買ってあげるさ。一緒に行くかい?」
イーストは何度も大きく頷いた。
昨日の俺はといえば。
施設の屋上で〈発酵術Ⅱ〉を使い、光る種砂に含まれる[なにか]を培養すると、石鉢の魔障水から魔素反応が消えた。
「つまり、この砂に含まれる[なにか]を増やすことで、魔障水を浄化できる、と」
チャックは石鉢の前へしゃがみ込み、ぎょろりとした目をさらに見開いて光る種砂を見つめていた。
「その可能性がある、という段階です。今の俺には[なにか]の正体までは分かりません」
「目には見えないのでございますか?」
「ええ、少なくとも、俺には見えません」
チャックたちの反応を見る限り、目に見えないほど小さな生物という発想は、少なくとも一般的ではないらしい。
「生き物、なのでございましょうか」
「その可能性はあります。ただ、生き物なのか、魔力の一種なのか、それとも別の何かなのか。今の段階では断定できません」
チャックは魔障の有無を判定できるという試験紙を何枚も使い、種砂が光っている間は魔障水が正常化されることを確かめた。
魔障反応が消えるにつれて種砂の光も弱まり、新しい魔障水を注ぐと、再び淡く輝き始める。
しかし、それを何度か繰り返すうち、光は次第に弱くなった。最後には、新しい魔障水を注いでもほとんど光らず、試験紙の反応も残ったままになった。
「ヒヒヒ……。正体不明なれど、確かに水質へ作用している」
チャックの細い唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。
笑っているはずなのだが、目は細くならないどころか、普段より大きく開いている。
「オオコウジ様。この種砂の[なにか]を、もう少し増やしていただくことは可能でございますか?」
「構いません。どのくらい必要ですか?」
「可能な限り」
「可能な限り、ですか」
「ヒヒ……。試験は、比較対象が多いほど好都合でございますので」
「俺の力を使わなくても、増やせる可能性はあります。もともと俺が来る前から濾過床で起きていた現象です。何か条件があるはず――」
「それは重畳でございます。すぐにでも、濾過槽を総合調査いたしましょう」
気づけば、周囲にいた研究員たちも、それぞれ空の水槽や石鉢を抱えて並んでいた。
「濃度を変えたものも欲しいのですが」
「水温による違いも確認したく――」
「どんな条件でしたか? 時間は? 気温は? 日差しは? 石鉢の大きさは?」
目に見えない生物の話なんて気味悪がられるかと思っていたが、杞憂だったらしい。
「おっさん、人気者じゃねェか」
少し離れた場所で、イリスが他人事のように笑っている。
「イリスも説明くらいは手伝ってくれないかな」
「あァ……? キラキラ光って、水が綺麗になった。以上!」
イリスが丁寧な説明をしてくれたが、研究員たちは誰も聞いていない。
頼まれるまま、十数個の小さな容器に分けた種砂を、順番に〈培養〉したところで、視界がわずかに揺れた。
「う……。すみません。少し、眩暈が。休ませてもらってもいいですか?」
「これはオオコウジ様、大変失礼いたしました」
チャックは研究員たちを手で制した。
「魔力の消耗ですな。すぐに補給魔石をお持ちいたしましょう」
近くの棚から淡く光る魔石を取り出し、俺に渡してくれる。
初めて使った補給魔石の感触は、真夏の炎天下で釣りをしている時、日差しが肌へじりじりと染み込んでくる感覚に近かった。
チャックによれば身体への悪影響はないらしい。
あれを浴びながらマッサージを受けたら、どれほど癒されるだろうか。
「オオコウジ様。お加減はいかがでしょう」
「ええ、だいぶ戻りました」
「それは何よりでございます。ヒヒ……」
俺の顔色が戻ったのを見て、研究員たちが再び水槽を手に近づいてくる。
「それでは、こちらにも三槽ほど――」
「ヒーヒヒヒ、皆さん、オオコウジ様はお疲れです。この辺にしておきましょう」
チャックの言葉に、研究員たちは名残惜しそうに足を止めた。
浄化した水は、飲用や水路への放流に問題がないか、今日から明日にかけて試験される。そこから先は、チャックと研究員たちの仕事だ。
そうしてようやく施設を離れ、約束どおりイリスと美味しい夕食を取ることができた。
せっかくなので、今日は一日休みにして、異世界の街を散策してみることにした。
コン、コン。
控えめなノックの音が響く。
「はい、どうぞ」
扉が開き、ニナが顔をのぞかせた。
「おじさん、このあとどこに行きたいか決めましたか?」
朝食の席で、街を案内してもらえないかと頼んでおいたのだ。
昨日ひと足先に商業区を見て回ったニナなら、俺よりずっと街に詳しいはずだ。
「俺も買い物をしようと思う。服と生活用品、それと……小さなナイフが欲しいな」
* * *
商業区の朝は早い。
昨日よりも早起きしたというのに、軒先へ商品を並べる商人、忙しなく荷車を引く人々、湯気と良い匂いを漂わせる屋台、水瓶を並べた水売りたちの露店など、街はすでに活気づいていた。
今日はイリスはいないようだ。懐が温かくなったので、どこかで遊び歩いているのだろう。
ギャロンを追った時にも通った屋根のついた市場で、見たことのない、星形の青い果物を一つ買う。
イーストと分けて食べながら市場を抜け、今度は染め場とは反対側の出口へ向かった。
やがて、街を囲む外壁にほど近い商店街へ出る。
外から訪れる旅人を相手にしているのだろう。通りの両側には、看板を大きく掲げた立派な店が所狭しと並んでいた。
「ふふ。おじさんの服、私が見繕ってあげますね」
隣でハンクが顔をしかめる。
昨日、ニナたちの買い物へ散々付き合わされ、すっかり懲りたと言わんばかりの顔だ。
「それより先に武器を見るぞ。何を持つか決めてからでないと、帯や上着も選べん」
「えぇー、服が先ですよぉ。素敵な服に合わせて、似合う武器を決めればいいじゃないですか。ね、おじさん?」
「武器は飾りじゃない。ユタカはどうしたいんだ」
【イースト:お菓子を食べたがっています】
三人が一斉にこちらを向いた。
正直、順番などどうでもいいのだが……。
「まず、生活用品を買いましょう。洗い石とか」
三人は揃って肩を落とした。
雑貨店で、生活必需品を揃える。
動物の毛を使ったブラシ類に、銅製の入れ子式食器。
凝った意匠が施された、形も大きさもさまざまな火起こし鋼と火打ち石。
職人たちの工夫がうかがえる品々に男心をくすぐられ、つい予定になかった物にまで手が伸びる。
「まったく……。お前も、ニナと似た者同士だ」
こればかりは仕方ない。
じっくり堪能したあとは、刃物店でナイフを見繕う。
「こいつが使いやすい」
ハンクは刃渡り十五センチほどの、厚みのある片刃のナイフを迷うことなく選び、渡してきた。
飾り気のない革巻きの柄を握ってみる。
重すぎず、軽すぎない。切っ先は丸みを帯びていて、見るからに作業向きの頑丈な造りをしている。木を削ったり、縄を切ったりするのに向いていそうだ。
「短いから取り回しがいい。旅先の作業なら大抵これで済む。いざという時にも、長物よりは扱いやすいだろう」
「なるほど、さすがです。包丁代わりにもなりそうですね」
「その通りだ。俺も常に一本携えている。それと、あっちの幅広のナイフも、藪や細い枝を払うのにいいぞ」
ハンクは上機嫌で次々に武器の紹介をしてくれる。
隣でニナが、似た者同士ですね、と小さく笑っていた。
服屋では、旅人向けの既製服を中心に見て回った。
「上はこんな感じが良いと思います!」
ニナが半刻ほどかけて選んだのは、染めていない麻の襟なしシャツと、深緑色をした革製の袖なし胴衣――ベストだった。
濃灰色の丈夫なズボンと、大小のポケットがいくつも付いた焦げ茶色の背負い鞄は、俺自身のチョイスだ。
ハンクは試着した俺の肩や腕を動かさせ、生地の張り具合を確かめる。
「悪くない。丈も短いし、これなら動きを邪魔しないだろう。腰帯に、さっきのナイフも下げられる」
ほかに肌着を数組、編み上げの革靴を買う。
【イースト:鞄を見つけました】
イーストは柔らかくなめされた、小ぶりの革の肩掛け鞄へ潜り込み、縁から顔だけを出している。
「それは乗り物じゃないよ」
【イースト:気に入っています】
「なら、買っちゃおうか」
鞄がごそごそと揺れる。喜んでいるようだ。
店内の姿見に、ひと通り着替えた自分の姿が映る。
新品で揃えた、この世界の服。
これでようやく、フレッドから借りた服を返せそうだ。
ほかにも水筒や洗い石、布類など、当面必要になりそうな品を一通り買い揃えた。
菓子を買い食いしながら街を散策していると、釣り竿と籠を担ぎ、北へ歩いていく二人組の男が見えた。
この近くに釣り場があるのだろうか。この世界の釣り具が気になり、目で竿を追う。
「おじさん、釣りがしたいんですか?」
ニナに話しかけられ、我に返る。
「あぁ、故郷では休日によく釣りをしていたんだ。俺が着ていた見慣れない服も、釣りのためのものなんだよ」
「ふん。妙な格好だと思ったら、そういうことか」
ハンクが鼻を鳴らした。
「特殊な素材なので、珍妙に見えるのも無理はないです。それより、この辺に釣り場があるんですか?」
「城壁を出て北へ行ったあたりに、でかい川が流れている。確か貸し竿屋と桟橋があったはずだ。だが、ここんとこ水の異常で釣りも禁止されていると聞いたが、今日は解除されたのか?」
地下の瘴気が原因だと分かり、その川は地下水路の異常とは無関係だと確認できたのかもしれない。
「気になるなら行ってみるか?」
「……! ぜひ!」
俺たちはモルトン村から来た際に通った城門へ戻った。詰め所の記録板へ行き先と帰還予定、それぞれの名前を書き込み、城壁に沿って北へ向かう。
ウェルズは、周囲を緩やかな高地に囲まれた盆地に築かれている。
城壁に沿う道は、北へ向かって緩やかな上り坂になっていた。
右手には、高くそびえる灰色の城壁。
左手には木々の点在する草原が続き、その中をモルトン村へ通じる街道が伸びている。街道の先には、ここからは見えないが、デスベアが現れた深い森と山があるはずだ。
振り返れば、南には一面の畑が並んでいる。
そして正面――北側には、見渡す限りの草原。その先を、陽光に輝く大河が横切っていた。
野草を摘む若者。木の実を採る女性。森へ向かう荷車や、武器を携えた冒険者たち。
街道と草原を、さまざまな人が行き交っている。
「ワクワクするね」
「あまりはめを外すなよ。暗くなる前には戻るぞ」
この世界では、どんな道具や餌を使い、どんな魚が釣れるのか。
「おじさん、今までで一番嬉しそうです。ふふ」
イーストは先ほど買った鞄の中から顔だけを覗かせ、上機嫌だ。
ほどなく、大地を割る広く深い川と、そこへ架かる長い木製の橋が見えてきた。川辺には大きな桟橋が張り出し、大勢の釣り人が竿を並べている。
「わ、釣り人、たくさんいますねぇ。あ、あそこ、見て見て! 何か釣れてますよ!」
ニナの視線を追うと、遠目にも両手で抱えるほど大きいと分かる魚が、大籠へ収められているところだった。
「いいねえ。早く竿を出そう。あれが貸し竿屋かな?」
川辺には、『貸し竿・つりえさ』とこの世界の文字で書かれたのぼりを掲げた、大きな小屋があった。テラスには何本もの竿が立て掛けられ、卓と椅子、焼き網まで用意されている。釣った魚を、その場で食べられるようだ。
貸し竿屋の中には様々な釣り具が並んでいた。その一角には、活き餌用の小魚が入った生け簀や、ミンチ状の生餌、強烈な臭いを放つ漬け込み餌などが用意されている。
「店主さん、これは?」
「らっしゃい! そいつはモルトコオロギをブラッドバスのワタと漬け込んだ、当店オリジナルの特エサだ! 臭いが凄いからあまり売れねえんだが、こいつを使えば入れ食いよ! ヌシまで寄ってくるかもしれねえな! ガハハハ!」
発酵餌か。良い集魚効果がありそうだ。
「は、鼻が曲がりますぅ~……」
「俺は普通の虫エサにするぞ」
俺はもちろん――




