第9話 最高の退職金
第9話 最高の退職金
六月の夜だった。
雨上がりの空気は少し湿っていて、橘園芸の前に並ぶラベンダーが静かに揺れている。閉店後の店内には灯りが残り、ガラス越しに柔らかなオレンジ色が滲んでいた。
一条響は事務所の前で立ち止まる。
昨夜、自分は全てを話した。
裏口座。
資金移動。
最初から騙すつもりだったこと。
普通なら終わりだ。
だが雛子は怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、お茶を淹れた。
「……意味がわからない」
響は低く呟き、ドアを開けた。
いつもの土と花の匂い。
少し湿った植物の香り。
安心する自分がいて、響は眉を寄せる。
「おはようございます!」
雛子がぱっと笑った。
何事もなかったみたいに。
「……普通ですね」
「何がです?」
「俺を警察に突き出さないんですか」
「ええー」
雛子は困ったように笑った。
「だって一条さん、昨日ちゃんと返してくれましたし」
「返してません」
「返しましたよ」
そう言って、彼女は机の上の分厚い封筒を指差した。
「今日はこっちです!」
嫌な予感しかしなかった。
「……何ですか」
「退職金です!」
響は沈黙した。
「誰の」
「一条さんの」
「意味がわからない」
本気でわからなかった。
雛子は嬉しそうに封筒を押し付けてくる。
「開けてください!」
響は深くため息を吐き、中身を取り出した。
書類。
契約書。
税務資料。
株式譲渡関連。
役員報酬設計。
生命保険。
積立投資。
そして。
「……なんだこれは」
声が低くなる。
全て。
完璧だった。
税率。
控除。
非課税枠。
資産分散。
どれも異常なほど綺麗に整理されている。
「去年から準備してました!」
「去年?」
「はい!」
響は書類をめくる。
頭が痛くなった。
役員報酬は段階的に増額され、税負担を最小化。
さらに積立NISA。
iDeCo。
退職所得控除。
法人保険。
株式分配。
ありとあらゆる制度が合法範囲で最適化されている。
しかも。
「……俺名義?」
「はい!」
「なぜ」
「だって一条さん、老後心配そうだったので」
真顔だった。
響は目を閉じた。
意味がわからない。
「社長」
「はい!」
「普通、裏切った相手に資産設計はしません」
「でも必要ですよ?」
「……」
「あと」
雛子は少しだけ得意そうに胸を張った。
「税理士さんにもいっぱい相談しました!」
だからか。
書類が完璧すぎる。
響は額を押さえた。
「……これは、いつから」
「グロウスラインが黒字になった頃です」
「……」
「一条さん、絶対どこか行っちゃうと思ってたので」
その言葉に胸がざわつく。
雛子は柔らかく笑った。
「だから、ちゃんと“逃げられない形”にしておこうかなって」
「怖いこと言ってますよ」
「えへへ」
笑って誤魔化した。
だが響はもう笑えなかった。
書類を握る指先が熱い。
これは。
ただの金ではない。
全部、自分のために考えられている。
自分が損しないように。
将来困らないように。
人生が安定するように。
誰かが、本気で設計している。
「……なぜここまで」
響の声は少しかすれていた。
雛子は不思議そうに瞬きをする。
「だって、一条さん頑張ったじゃないですか」
「……」
「会社守ってくれて」
「俺は最初、壊すつもりだった」
「でも壊さなかったです」
静かな声だった。
「最後、自分から話してくれました」
窓の外では雨雲が流れ、夕陽が少しだけ差し始めている。
柔らかな光が事務所へ入り込み、観葉植物の葉を照らしていた。
「人って」
雛子がぽつりと言う。
「間違えることあると思うんです」
「……」
「でも、戻ってきてくれたなら、それでいいんじゃないかなって」
響は返事ができなかった。
喉が妙に苦しい。
人生で初めてだった。
数字で勝てない。
契約で勝てない。
合理性で勝てない。
この女は。
全部、こちらのルールで勝ってくる。
合法的に。
完璧に。
逃げ道すらなく。
「あとですね!」
雛子がまた明るくなる。
「株も少し譲渡する予定です!」
「……は?」
「副社長兼CFOです!」
「聞いてません」
「今決めました!」
「勝手に決めないでください」
「嫌ですか?」
その問いだけ、少し不安そうだった。
響は言葉を失う。
嫌なわけがない。
そんな資格、自分にはないと思っているだけだ。
「……俺は」
声が低くなる。
「あなたを騙した人間です」
「はい」
「金も抜いた」
「はい」
「最低ですよ」
「でも優しいです」
「違う」
「優しいです」
雛子は笑った。
「一条さん、自分のこと嫌いすぎです」
その瞬間。
胸の奥で、何かが崩れた。
響はゆっくり顔を覆う。
負けた。
完全に。
今まで何社も見てきた。
欲望。
裏切り。
金。
権力。
人は皆、そこへ負ける。
そう思っていた。
なのに。
この女は。
信頼だけで、自分を追い詰めてきた。
「……こんなの」
響は小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「勝てるわけないだろ」
「はい?」
「なんでもありません」
雛子は首を傾げる。
夕陽が差し込む。
花の香りが漂う。
事務所の空気は温かい。
響は静かに書類を閉じた。
そこにはもう、“奪う側”の男はいなかった。
いるのは。
人生で初めて、誰かに居場所を与えられてしまった男だけだった。




