最終話 ざまぁ
最終話 ざまぁ
春だった。
橘園芸の前を流れる川沿いには桜が咲き、淡い花びらが風に乗って舞っている。朝の光は柔らかく、濡れた葉の匂いと土の香りが街へ静かに広がっていた。
開店前だというのに、店の前には小さな行列ができている。
「今年もお花見イベント楽しみですねぇ」
「社長の甘酒、去年めちゃくちゃ美味しかったよな」
「今年は海外のお客さんも来るらしいぞ」
笑い声が飛ぶ。
店内では社員たちが慌ただしく動き回っていた。
「配送確認しましたー!」
「海外ライブ配信の機材届いてます!」
「社長また予算増やしたって本当ですか!?」
「CFOが今すごい顔してます!」
その瞬間。
事務所の奥から低い声が飛んだ。
「聞こえてます」
全員がぴたりと固まる。
一条響が書類から顔を上げた。
黒いシャツに細い眼鏡。数年前より少し柔らかくなったとはいえ、その鋭い視線はいまだ健在だった。
社員たちがそっと目を逸らす。
「福利厚生費、前年比一四〇%増」
響は淡々と言った。
「説明してください、社長」
「えへへ」
橘雛子が笑って誤魔化す。
だが全く誤魔化せていない。
「だって去年、みんな楽しそうだったので!」
「理由になってません」
「今年は地域の子供たちも招待します!」
「増えてるじゃないですか」
「海外のお客様も!」
「さらに増えてる」
響は深くため息を吐いた。
だがその顔は、昔みたいに冷たくはなかった。
数年。
たった数年で、橘園芸は業界でも知られる企業になっていた。
海外事業は拡大。
地域ブランド価値は急上昇。
離職率ゼロ。
求人倍率は異常。
銀行評価は最上位。
そして。
「失礼します」
会議室へスーツ姿の男たちが入ってくる。
大手投資会社の人間だった。
社員たちが小さくざわつく。
「また買収ですか……」
「懲りないなぁ」
響は静かに立ち上がった。
「社長はここにいてください」
「はい!」
会議室の空気は重かった。
高級香水。
革靴。
計算された笑顔。
昔の響なら、そちら側に座っていただろう。
「一条CFO」
投資会社の代表が笑う。
「本日は前向きなお話を」
「結論からどうぞ」
「弊社としては、橘園芸の株式取得を――」
「お断りします」
即答だった。
男が苦笑する。
「条件も聞かずに?」
「聞く価値がない」
「強気ですね」
「当然です」
響は静かに資料を閉じた。
「御社は過去三年間で地方ブランド企業を七社買収。うち五社で人員削減」
男の顔が少し動く。
「福利厚生削減率平均二八%。地域事業撤退率六四%」
「……調べましたか」
「仕事ですので」
響の声は冷たい。
「橘園芸の価値は短期利益ではない。切り売りされるくらいなら、こちらから切ります」
沈黙。
男は数秒後、小さく肩を竦めた。
「噂通りですね」
「何がです」
「“鬼のCFO”」
響は無表情のままだった。
「社長には近づくな、と業界で有名ですよ」
「当然です」
会議は十分で終わった。
完全敗北。
投資会社側は疲れ切った顔で帰っていく。
その様子を見ていた社員たちが小さく拍手した。
「さすが一条さん……」
「また秒殺だ……」
「怖ぇ……」
響は聞こえないふりをする。
その時だった。
「響さん!!」
小さな影が飛び込んできた。
近所の子供だった。
「今年もお花植えるんでしょ!?」
「……予定ではあります」
「やったー!」
さらに後ろから子供たちが集まってくる。
「響さん去年焼きそば作ってた!」
「今年もやって!」
「あと高いお菓子いっぱいあった!」
響は眉を寄せた。
「誰ですか子供にそんなもの与えたのは」
「響さんです!」
社員たちが笑う。
雛子はその光景を見ながら、ふわりと目を細めた。
昔。
誰より冷たく、誰より人を信用しなかった男。
数字しか信じなかった男。
それが今では。
地域イベントで子供に囲まれ、福利厚生費に頭を抱えている。
「響さん」
雛子が隣へ並ぶ。
桜の花びらが肩へ落ちた。
「なんです」
「幸せですか?」
響は少しだけ黙った。
春の風が吹く。
花の匂い。
笑い声。
社員たちの活気。
遠くで鳩が鳴いている。
昔の自分なら、理解できなかった空気だった。
無駄だと思っていた。
利益にならないと思っていた。
だが今ならわかる。
この会社の本当の資産は。
現金でも土地でもない。
人だ。
信頼だ。
積み重ねた時間だ。
「……まあ」
響は小さく息を吐く。
「悪くありません」
「ふふっ」
雛子が笑った。
「じゃあ、お花見イベントの予算――」
「増やしません」
「ええー!」
「去年、甘酒だけで赤字寸前でした」
「でもみんな笑ってました!」
「毎回それ言いますね」
「だって本当ですもん」
響は呆れたように目を閉じる。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
数年前。
自分はこの会社を食い潰すつもりだった。
奪うつもりだった。
だが。
最後にざまぁされたのは、自分だった。
人を信じないまま生きていけると思っていた、昔の自分自身に。
桜が舞う。
春の光の中で、雛子が笑っている。
その隣で響は静かに思った。
――悪くない。
こんな人生も。




