エピローグ 帰る場所
エピローグ 帰る場所
秋の風は少し冷たかった。
橘園芸の前を流れる並木道では、金色に色づいた銀杏の葉がさらさらと揺れている。空は高く澄み、夕方の光が店先の鉢植えを柔らかく照らしていた。
閉店後の店内には、静かなクラシック音楽が流れている。
土の匂い。
切ったばかりのハーブの青い香り。
ほうじ茶の湯気。
その全部が混ざった空気を、一条響はゆっくり吸い込んだ。
「……静かですね」
事務所の窓際で書類を閉じながら呟く。
時計は十九時過ぎ。
昔なら、まだ仕事は終わっていない時間だった。
だが橘園芸では違う。
社員はとっくに帰宅済み。
営業部も経理部も、十八時にはほぼ消える。
なのに業績は毎年伸びていた。
「お疲れ様です!」
奥から明るい声が飛ぶ。
橘雛子が両手で湯呑みを持ちながら歩いてきた。
淡いクリーム色のニット。ゆるく結んだ髪。肩には小さな枯葉が一枚乗っている。
「社長」
響は小さくため息を吐いた。
「また外に出てましたね」
「地域の猫ちゃん会議です!」
「意味がわかりません」
「最近、公園の花壇で寝るんですよ」
「そうですか」
「かわいいです」
本当にどうでもいい報告だった。
だが響は自然に湯呑みを受け取っていた。
温かい。
ほうじ茶の香ばしい香りが鼻へ抜ける。
「……うまいですね」
「今日ちょっと高いやつです!」
「福利厚生費ですか」
「経費です!」
「また曖昧なことを」
雛子が笑う。
昔から変わらない笑い方だった。
その時だった。
入口のベルが鳴る。
振り返ると、小さな男の子が立っていた。
「こんばんはー!」
「あら、拓海くん!」
近所の小学生だった。
ランドセルを背負い、頬を赤くしている。
「これ!」
差し出されたのは、小さな紙袋。
「ママが、いつもお花ありがとうって!」
中には手作りクッキーが入っていた。
少し歪な形。
だが甘いバターの香りがした。
「わぁ!」
雛子が嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます!」
男の子はもじもじしながら響を見た。
「あと……」
「なんです」
「この前、CFOってなんなの?」
響は沈黙した。
雛子が吹き出す。
「たしかに難しいですねぇ」
「……会社の財布を守る仕事です」
「ふーん」
男の子は少し考えた後、ぱっと笑った。
「じゃあ勇者の宝箱守る人だ!」
響は思わず目を瞬いた。
雛子は隣でけらけら笑っている。
「ぴったりです!」
「違います」
「でもかっこいいですよ!」
「やめてください」
男の子は満足そうに帰っていく。
ドアが閉まり、また静けさが戻った。
外では秋風が葉を揺らしている。
「……変ですね」
響はぽつりと言った。
「何がです?」
「昔の俺なら、こんな店すぐ潰れると思ってました」
雛子は静かに聞いている。
「利益率は高くない。無駄も多い。地域活動に金を使いすぎる」
「使いすぎですか?」
「使いすぎです」
「ええー」
不満そうだった。
響は小さく笑う。
「でも」
窓の外を見る。
帰宅する社員たち。
店へ手を振る近所の人。
夕焼け。
柔らかな灯り。
「潰れなかった」
「はい!」
「むしろ強くなった」
「はい!」
雛子は嬉しそうに頷く。
「だってみんな、ここ好きなんです」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
響は昔を思い出す。
数字しか信じなかった頃。
人は裏切ると思っていた頃。
実際、そういう世界で生きてきた。
だから奪う側になった。
奪われる前に。
傷つく前に。
誰も信じずに済むように。
だが。
橘園芸は違った。
この会社は。
利益だけでは動かなかった。
人が笑う。
社員が安心する。
地域が喜ぶ。
その積み重ねが、結果的に一番強かった。
「一条さん」
雛子が隣へ並ぶ。
「はい」
「最初、怖かったです」
「知ってます」
「でも今は」
彼女は少し照れたように笑う。
「帰ってくると安心します」
響は何も言わなかった。
言えなかった。
窓の外では、夕陽が静かに沈んでいく。
秋の匂い。
温かいお茶。
花の香り。
そして、誰かが待っている場所。
それを。
昔の自分は、何より嫌っていた。
弱くなる気がしていた。
だが今ならわかる。
帰る場所がある人間は、強い。
失わないように戦えるからだ。
「社長」
「はい!」
「来月の地域イベント予算ですが」
「はい!」
「少しだけ増額を認めます」
雛子の目が丸くなる。
「ほんとですか!?」
「ただし上限ありです」
「やったぁ!!」
満面の笑みだった。
その笑顔を見ながら、響は静かに息を吐く。
数年前。
自分はこの会社を奪うつもりだった。
だが結局。
奪われたのは自分だった。
孤独も。
猜疑心も。
冷たい生き方も。
全部。
この会社に。
この人たちに。
少しずつ溶かされてしまった。
店内には温かな灯りが灯っている。
雛子が笑っている。
外では秋風が吹いている。
響は静かに湯呑みを口へ運んだ。
ほうじ茶は、今日も少しだけ熱かった。




