表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/11

エピローグ 帰る場所

エピローグ 帰る場所


 秋の風は少し冷たかった。


 橘園芸の前を流れる並木道では、金色に色づいた銀杏の葉がさらさらと揺れている。空は高く澄み、夕方の光が店先の鉢植えを柔らかく照らしていた。


 閉店後の店内には、静かなクラシック音楽が流れている。


 土の匂い。


 切ったばかりのハーブの青い香り。


 ほうじ茶の湯気。


 その全部が混ざった空気を、一条響はゆっくり吸い込んだ。


「……静かですね」


 事務所の窓際で書類を閉じながら呟く。


 時計は十九時過ぎ。


 昔なら、まだ仕事は終わっていない時間だった。


 だが橘園芸では違う。


 社員はとっくに帰宅済み。


 営業部も経理部も、十八時にはほぼ消える。


 なのに業績は毎年伸びていた。


「お疲れ様です!」


 奥から明るい声が飛ぶ。


 橘雛子が両手で湯呑みを持ちながら歩いてきた。


 淡いクリーム色のニット。ゆるく結んだ髪。肩には小さな枯葉が一枚乗っている。


「社長」


 響は小さくため息を吐いた。


「また外に出てましたね」


「地域の猫ちゃん会議です!」


「意味がわかりません」


「最近、公園の花壇で寝るんですよ」


「そうですか」


「かわいいです」


 本当にどうでもいい報告だった。


 だが響は自然に湯呑みを受け取っていた。


 温かい。


 ほうじ茶の香ばしい香りが鼻へ抜ける。


「……うまいですね」


「今日ちょっと高いやつです!」


「福利厚生費ですか」


「経費です!」


「また曖昧なことを」


 雛子が笑う。


 昔から変わらない笑い方だった。


 その時だった。


 入口のベルが鳴る。


 振り返ると、小さな男の子が立っていた。


「こんばんはー!」


「あら、拓海くん!」


 近所の小学生だった。


 ランドセルを背負い、頬を赤くしている。


「これ!」


 差し出されたのは、小さな紙袋。


「ママが、いつもお花ありがとうって!」


 中には手作りクッキーが入っていた。


 少し歪な形。


 だが甘いバターの香りがした。


「わぁ!」


 雛子が嬉しそうに笑う。


「ありがとうございます!」


 男の子はもじもじしながら響を見た。


「あと……」


「なんです」


「この前、CFOってなんなの?」


 響は沈黙した。


 雛子が吹き出す。


「たしかに難しいですねぇ」


「……会社の財布を守る仕事です」


「ふーん」


 男の子は少し考えた後、ぱっと笑った。


「じゃあ勇者の宝箱守る人だ!」


 響は思わず目を瞬いた。


 雛子は隣でけらけら笑っている。


「ぴったりです!」


「違います」


「でもかっこいいですよ!」


「やめてください」


 男の子は満足そうに帰っていく。


 ドアが閉まり、また静けさが戻った。


 外では秋風が葉を揺らしている。


「……変ですね」


 響はぽつりと言った。


「何がです?」


「昔の俺なら、こんな店すぐ潰れると思ってました」


 雛子は静かに聞いている。


「利益率は高くない。無駄も多い。地域活動に金を使いすぎる」


「使いすぎですか?」


「使いすぎです」


「ええー」


 不満そうだった。


 響は小さく笑う。


「でも」


 窓の外を見る。


 帰宅する社員たち。


 店へ手を振る近所の人。


 夕焼け。


 柔らかな灯り。


「潰れなかった」


「はい!」


「むしろ強くなった」


「はい!」


 雛子は嬉しそうに頷く。


「だってみんな、ここ好きなんです」


 その言葉が、静かに胸へ落ちた。


 響は昔を思い出す。


 数字しか信じなかった頃。


 人は裏切ると思っていた頃。


 実際、そういう世界で生きてきた。


 だから奪う側になった。


 奪われる前に。


 傷つく前に。


 誰も信じずに済むように。


 だが。


 橘園芸は違った。


 この会社は。


 利益だけでは動かなかった。


 人が笑う。


 社員が安心する。


 地域が喜ぶ。


 その積み重ねが、結果的に一番強かった。


「一条さん」


 雛子が隣へ並ぶ。


「はい」


「最初、怖かったです」


「知ってます」


「でも今は」


 彼女は少し照れたように笑う。


「帰ってくると安心します」


 響は何も言わなかった。


 言えなかった。


 窓の外では、夕陽が静かに沈んでいく。


 秋の匂い。


 温かいお茶。


 花の香り。


 そして、誰かが待っている場所。


 それを。


 昔の自分は、何より嫌っていた。


 弱くなる気がしていた。


 だが今ならわかる。


 帰る場所がある人間は、強い。


 失わないように戦えるからだ。


「社長」


「はい!」


「来月の地域イベント予算ですが」


「はい!」


「少しだけ増額を認めます」


 雛子の目が丸くなる。


「ほんとですか!?」


「ただし上限ありです」


「やったぁ!!」


 満面の笑みだった。


 その笑顔を見ながら、響は静かに息を吐く。


 数年前。


 自分はこの会社を奪うつもりだった。


 だが結局。


 奪われたのは自分だった。


 孤独も。


 猜疑心も。


 冷たい生き方も。


 全部。


 この会社に。


 この人たちに。


 少しずつ溶かされてしまった。


 店内には温かな灯りが灯っている。


 雛子が笑っている。


 外では秋風が吹いている。


 響は静かに湯呑みを口へ運んだ。


 ほうじ茶は、今日も少しだけ熱かった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ