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第8話 悪党の告白

第8話 悪党の告白


 夜の橘園芸は静かだった。


 営業時間を過ぎた店内には誰もいない。照明だけが淡く灯り、ガラス越しに見える街灯が床へ長い影を落としている。


 外は春の終わりの雨だった。


 細かな雨粒が静かに降り続き、濡れたアスファルトがぼんやり光っている。


 一条響は事務所で一人、机の上の書類を見つめていた。


 分厚いファイル。


 黒い革表紙。


 中には全て入っている。


 裏口座。


 資金移動。


 ペーパーカンパニー。


 偽装契約。


 グロウスライン。


 そして。


 最初から橘園芸を食い物にするために近づいたという、何より醜い事実。


「……終わりだな」


 低く呟く。


 雨音だけが返事をした。


 本当なら、もっと前に離れるべきだった。


 八億は既にある。


 海外法人も黒字。


 金は十分。


 だが離れられなかった。


 理由はわかっている。


 認めたくなかっただけだ。


 その時。


 ぱたぱたと廊下を走る足音が聞こえた。


「一条さん?」


 ドアが開く。


 雛子だった。


 白いカーディガンに、薄いピンクのワンピース。髪は少し湿っていて、雨の匂いが微かに混ざっている。


「まだいたんですか?」


「社長こそ」


「忘れ物です!」


 にこっと笑う。


 だが次の瞬間、雛子は気づいた。


 机の上のファイルに。


「……どうしたんです?」


 響は答えなかった。


 喉が妙に重い。


 こんな感覚は久しぶりだった。


 企業を潰す時、躊躇などしたことがない。


 数字だけ見ればいい。


 切り捨てればいい。


 それだけだった。


 なのに今は。


 胸の奥が痛かった。


「社長」


 響は静かに言った。


「少し、話があります」


 雛子は黙って椅子へ座った。


 外では雨。


 時計の秒針だけが小さく響く。


 響はファイルを押し出した。


「……何ですか?」


「見ればわかります」


 雛子は不思議そうな顔で表紙を開く。


 ページをめくる。


 数字。


 送金履歴。


 契約書。


 法人名。


 細かな資金の流れ。


 最初はきょとんとしていた瞳が、少しずつ真剣になる。


 響はその横顔を見つめていた。


 怒るだろう。


 当然だ。


 警察へ突き出されても文句は言えない。


 雛子は静かにページをめくり続ける。


 やがて。


「……これ」


 小さな声。


「はい」


「グロウスラインって」


「俺の会社です」


 雛子の指が止まる。


 響はゆっくり息を吐いた。


「最初から、橘園芸の資産を抜くつもりでした」


 静かな声だった。


「財務顧問として入り込み、資金の流れを掌握する。数年かけて会社価値を操作し、最終的には売却するつもりだった」


 雨音が強くなる。


「慈善事業削減も、投資提案も、全部そのためです」


 雛子は何も言わない。


 響は続けた。


「海外事業も、本来は架空事業のはずだった」


 自嘲気味に笑う。


「……それを、あなたが勝手に本物にした」


 沈黙。


 店内には花の匂いだけが漂っている。


 響は目を伏せた。


「俺はお前を騙していた」


 言った瞬間。


 胸の奥が鈍く軋んだ。


 これで終わる。


 当然だ。


 こんな男、信用されるはずがない。


 だが。


「ふふっ」


 小さな笑い声がした。


 響は顔を上げる。


 雛子が笑っていた。


 怒りでも軽蔑でもなく。


 本当に、いつものように。


「……なんで笑うんです」


「だって」


 雛子は書類を閉じた。


「やっぱりそうだったんだなぁって」


 響は固まった。


「……は?」


「なんか変だと思ってたんです」


「気づいていたのか」


「はい!」


 あっさり頷く。


「だって一条さん、最初からお金の流ればっかり見てましたし」


「……」


「あと契約書読む時だけ目が怖かったです」


 そんなところで判断するな、と響は思った。


「なら、なぜ放置した」


「悪い人じゃなかったからです」


 即答だった。


 響は眉を寄せる。


「俺は実際に資金を抜いていた」


「でも社員のお給料、一回も削らなかったですよね?」


「……」


「取引先にもちゃんと払ってたし」


 雛子は静かに笑う。


「伯父様からも守ってくれました」


「それは……」


「あと」


 雛子は少し首を傾げた。


「本当に悪い人なら、今ここで言いません」


 響は言葉を失った。


 雨音だけが響く。


 雛子はファイルをぽん、と叩いた。


「これ、私に渡したら、自分終わるかもしれないのに」


「……」


「でも渡したんですよね?」


 響は答えられなかった。


 自分でもわからない。


 なぜこんな真似をしたのか。


 逃げればよかった。


 黙って消えればよかった。


 なのに。


 最後だけは嘘をつきたくなかった。


「一条さん」


 雛子の声が柔らかくなる。


「苦しかったですか?」


 その一言に。


 響の呼吸が止まりそうになった。


 責めるでもなく。


 怒るでもなく。


 最初に出てきたのが、その言葉だった。


 苦しかったか、と。


 響はゆっくり目を閉じた。


 脳裏に浮かぶ。


 冷たい高層マンション。


 一人で見る口座残高。


 静かすぎる部屋。


 そして。


 橘園芸で笑っていた人たち。


 温かいほうじ茶。


 土の匂い。


 冬薔薇。


 雛子の笑顔。


「……わからない」


 それが精一杯だった。


 雛子は少しだけ寂しそうに笑った。


「そっか」


 それから立ち上がり、給湯室へ向かう。


「お茶淹れますね」


「……は?」


「こういう時、お茶飲んだ方がいいです」


 本気だった。


 響は思わず額を押さえた。


 普通、警察だろう。


 怒鳴るだろう。


 泣くだろう。


 なのにこの女は。


 ほうじ茶を淹れに行った。


 数分後。


 湯気の立つ湯呑みが差し出される。


 香ばしい香り。


 温かい湯気。


 雛子は向かい側へ座り、小さく笑った。


「一条さん」


「……なんです」


「ちゃんと帰ってきてくれて、よかったです」


 響はその瞬間、理解した。


 自分は。


 もう、とっくに負けていたのだと。



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