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第7話 敵対的買収

第7話 敵対的買収


 三月の雨は冷たかった。


 都心の高層ビル群は灰色の空に沈み、ガラス窓を叩く雨粒が会議室の光を滲ませている。


 一条響は長いテーブルの端に座り、無表情で資料を閉じた。


 正面には、大手総合グリーン事業会社――東都フローラ開発の役員たち。


 全員、高級スーツ。


 高そうな時計。


 計算された笑顔。


 響は知っている。


 この手の人間は、利益にならないものを愛さない。


 だから利用しやすい。


「つまり」


 東都フローラ専務の男が口を開いた。


「橘園芸はブランド力はあるが、規模が小さい」


「ええ」


「我々が買収すれば、海外販路も物流も一気に拡大できる」


「その通りです」


 響は静かに頷いた。


 これが最後の計画だった。


 橘園芸を高値で売る。


 雛子には“会社の未来のため”と言えばいい。


 東都フローラは地方ブランドを吸収し、名前だけ残して解体するタイプの企業だ。


 だが響には関係ない。


 売却益。


 仲介料。


 グロウスラインとの整理。


 全て終わる。


 そうすれば、この奇妙な会社から離れられる。


「先方も女性社長でしょう?」


 専務が薄く笑った。


「感情論で押せばいけますよ」


 その瞬間。


 響の胸の奥で、微かに苛立ちが走った。


 だが無視した。


「来週、正式な打診を行います」


「頼みますよ、一条さん」


 雨音が強くなる。


 響は窓の外を見た。


 灰色の東京。


 冷たい景色だった。


 数日後。


 橘園芸の事務所には、春の花の匂いが満ちていた。


 チューリップ。


 スイートピー。


 沈丁花。


 柔らかな香りが混ざり、空気まで明るい。


「緊張しますねぇ……」


 雛子は会議室の前でそわそわしていた。


 ベージュのジャケット姿。


 だが髪には小さな花の髪留めがついている。


「社長」


 響は低く言った。


「今日は重要な交渉です。雑談は控えてください」


「はい!」


「あと変なこと言わないでください」


「ええー」


「本当にやめてください」


「そんな信用ないですか?」


「ありません」


 すると雛子はなぜか嬉しそうに笑った。


「でも一条さんいるから大丈夫です!」


 その言葉に、響はわずかに視線を逸らした。


 会議室へ入る。


 東都フローラ側は五人。


 重たい空気。


 高級香水の匂い。


 机の上には分厚い契約書。


 専務が営業用の笑みを浮かべた。


「本日はお時間ありがとうございます」


「こちらこそ!」


 雛子がぺこりと頭を下げる。


 響は資料を開いた。


「本件は、東都フローラによる橘園芸買収提案です」


 空気が少し張る。


「御社のブランドと販路を統合し、より大きな成長を――」


「ちなみに!」


 雛子が手を上げた。


 響は嫌な予感しかしなかった。


「なんでしょう」


「買収すると、社員さんたちは幸せになりますか?」


 沈黙。


 専務が一瞬だけ笑顔を止めた。


「……もちろん、雇用は最大限維持を」


「お給料下がります?」


「それは業績次第で――」


「定時で帰れます?」


「効率化は必要ですので」


「地域の薔薇園は?」


「採算性を見て判断します」


 雛子は静かに頷いた。


「なるほどぉ」


 その横顔を見て、響は胸がざわつく。


 やめろ。


 余計なことを言うな。


 だが。


「じゃあ、買収は嫌です」


 あっさり言った。


 会議室が凍る。


「……理由を伺っても?」


 専務の声が少し硬い。


「だって、みんな悲しそうなので」


「……」


「私は会社大きくしたいです。でも、うちの人たちが苦しくなるのは嫌です」


 静かな声だった。


 だが不思議なほど真っ直ぐだった。


 専務が苦笑する。


「理想論ですね」


「そうですか?」


「経営とは綺麗事ではありません」


 その瞬間。


 響はなぜか口を開いていた。


「……ですが」


 全員の視線が集まる。


 響は自分でも驚いていた。


「橘園芸の価値は、財務諸表だけでは測れません」


 専務が眉をひそめる。


「どういう意味です?」


「地域信用。顧客定着率。ブランド好感度。離職率ゼロ」


 響は淡々と続けた。


「それを壊せば、御社が欲しがっている“橘園芸ブランド”そのものが消える」


 静寂。


 雨音だけが響く。


 雛子が目を丸くしていた。


「……では一条さん」


 専務が低く言う。


「どうしろと?」


 その時だった。


「提携にしませんか?」


 雛子が笑った。


「対等なやつ!」


「対等?」


「はい!」


 彼女は身を乗り出した。


「うちはブランドと商品作ります! 東都さんは物流と海外展開!」


「……」


「でも社員も地域活動も、そのまま守ります!」


 専務が呆れた顔をする。


「そんな都合のいい――」


「ありますよ」


 響が遮った。


 自分でも驚くほど冷静な声だった。


「業務提携契約なら双方に利益がある。東都側はブランド価値を獲得できる。橘園芸側は販路拡大」


「……」


「買収より低リスクです」


 専務が黙る。


 役員たちも資料を見始めた。


 響はその瞬間、気づいてしまった。


 自分は今。


 橘園芸を売るどころか、守る方向へ交渉を修正している。


 完全に。


 無意識で。


 数十分後。


「……わかりました」


 専務がため息を吐いた。


「業務提携で再協議しましょう」


 雛子がぱっと笑う。


「ほんとですか!?」


「ええ……」


 専務は疲れた顔だった。


「こんな交渉、初めてですよ」


 会議終了後。


 役員たちが帰った会議室で、雛子は満面の笑みを浮かべていた。


「一条さん!!」


「……なんです」


「すごかったです!!」


「別に」


「私、一人だったら絶対負けてました!」


 違う、と響は思う。


 負けたのは自分だ。


 本来なら買収成立で終わるはずだった。


 なのに。


 気づけば必死に、この会社を守っていた。


「一条さん」


 雛子がふわりと笑う。


「やっぱり優しいですね」


「違います」


「またそれ言ってる」


 窓の外では雨が止み、夕陽が差し込んでいた。


 柔らかな光が会議室を染める。


 響は静かに目を閉じる。


 そして認めたくもない事実を、ようやく理解し始めていた。


 自分はもう。


 この会社を壊したくない。



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