第6話 冬薔薇
第6話 冬薔薇
十二月の夜風は冷たかった。
駅前にはクリスマスソングが流れ、イルミネーションの青白い光が濡れた歩道を照らしている。カップルたちが笑いながらすれ違う中、一条響は無表情のままマンションのエントランスを抜けた。
高層階。
静かな部屋。
革張りのソファ。
磨かれたフローリング。
誰の生活感もない空間だった。
ネクタイを緩めながら、響はノートパソコンを開く。
深夜零時過ぎ。
窓の向こうでは、東京の夜景だけが冷たく光っていた。
「……」
口座画面を開く。
合同会社グロウスライン。
残高。
八億四千二百万円。
響はしばらく瞬きをしなかった。
海外輸出事業は完全に軌道へ乗っていた。
薔薇。
盆栽。
日本庭園キット。
雛子が「海外の人も絶対好きです!」と笑いながら始めた商品群は、今や高級園芸ブランドとして海外富裕層へ浸透し始めている。
本来ならありえない。
架空会社だった。
税務上の資金移転先。
数年後に畳むはずだった幽霊会社。
それが今、まともな輸出企業になっている。
しかも利益率が高い。
「……馬鹿げてる」
響は低く呟いた。
金なら、もう十分だった。
いや、十分すぎた。
このまま海外法人を整理し、資産を海外口座へ逃がせば、一生遊んで暮らせる。
普通なら。
もう終わっている。
だが。
響は画面を閉じた。
胸の奥が妙に空虚だった。
静かすぎる部屋。
エアコンの音。
ガラスに映る自分の顔。
そこに達成感はなかった。
「……なんなんだ」
思わず漏れる。
これが欲しかったはずだ。
金。
自由。
安全。
誰にも裏切られない生活。
なのに。
頭に浮かぶのは、橘園芸の事務所だった。
土の匂い。
社員たちの笑い声。
ほうじ茶の香ばしい湯気。
窓辺に置かれた季節の花。
そして。
「一条さん!」
――あの、間の抜けた明るい声。
響は眉を寄せた。
疲れている。
そうだ。
単に仕事疲れだ。
彼は無理やりそう結論づけ、冷えたコーヒーへ手を伸ばした。
その時だった。
スマホが鳴る。
画面には『橘雛子』。
響は深く息を吐き、通話ボタンを押した。
「……何ですか」
『一条さん!?』
開口一番、元気だった。
『まだ起きてました!?』
「夜中です」
『よかったぁ!』
「よくないです」
電話越しに笑う気配。
妙に安心した声だった。
『今、会社なんですけど』
「は?」
『雪です!』
響は窓の外を見る。
確かに白いものが落ち始めていた。
『薔薇が寒そうなので、みんなで避難させてるんです!』
「……それで?」
『手伝ってください!』
「断ります」
『ええー!」
本気で残念そうだった。
「業者を呼べばいいでしょう」
『クリスマスなのに来てくれません!』
「当然です」
『一条さん冷たいです!』
「雪の日に外へ出る方が異常です」
だが数秒後。
『……でも』
雛子の声が少し小さくなる。
『一条さん来てくれたら、嬉しいです』
響は黙った。
窓の外では雪が増えていく。
白い粒が都会の光へ溶けていた。
三十分後。
「なんで俺が……」
響は橘園芸の前で呟いた。
コートへ雪が積もる。
店の灯りはまだ点いていた。
中へ入ると、暖房の温かさと植物の湿った香りが身体を包む。
「あ!! 一条さん!!」
雛子が駆けてきた。
頬が赤い。
白い息を吐きながら笑っている。
「来てくれた!」
「……近くだっただけです」
「嘘ですね」
「違います」
「でも嬉しいです」
その笑顔に、響はなぜか視線を逸らした。
店内では社員たちが鉢植えを移動していた。
「社長ー! こっち終わりました!」
「ありがとうございます!」
「一条さんも手伝ってくださいよ!」
「なんでCFOが肉体労働を」
「諦めてください!」
笑い声が響く。
外は雪。
中は暖かい。
誰かが淹れたココアの甘い匂いまで漂っている。
響は無言で鉢植えを持ち上げた。
「おおー!」
社員たちが拍手する。
「似合わない!」
「うるさい」
雛子がけらけら笑った。
その時だった。
「一条さん、こっちです!」
店の奥へ呼ばれる。
小さな休憩スペース。
そこには一輪の白薔薇が飾られていた。
冬薔薇だった。
雪明かりの中で、静かに咲いている。
「……綺麗ですね」
響は思わず呟いた。
「でしょう?」
雛子が嬉しそうに笑う。
「寒い時期に咲く薔薇って、なんか強いですよね」
暖房の音が静かに響く。
窓の外では雪が降り続いていた。
「私、この花好きなんです」
雛子は白薔薇を見つめたまま言う。
「寒くても、ちゃんと咲くから」
「……」
「なんか、一条さんみたいですよね」
「やめてください」
「えー、似てますよ?」
「どこがです」
「綺麗だけど怖いところ」
「褒めてませんね」
雛子はまた笑った。
その笑い声を聞きながら、響は不意に気づく。
ここにいると、妙に呼吸が楽だった。
誰も金の話をしない。
誰も騙そうとしない。
誰も怯えていない。
ただ花があって、人が笑っている。
それだけの空間。
響は白薔薇を見つめた。
八億の口座より。
高級マンションより。
今この場所の方が、なぜか温かかった。
「一条さん」
雛子がほうじ茶を差し出す。
湯気がふわりと立ち上る。
「メリークリスマスです」
響はしばらく黙っていた。
それから静かに湯呑みを受け取る。
温かかった。
指先がじんわり熱を持つ。
外では雪が降っている。
なのに。
響は気づいてしまった。
自分が今、一番帰りたい場所は。
もう高層マンションではなく。
この、土と花の匂いがする古い会社なのだと。




