第5話 数字は嘘をつかない
第5話 数字は嘘をつかない
八月の空気は重かった。
朝から蝉が鳴き続け、橘園芸のガラス扉を開けるたびに熱風が入り込む。店先の向日葵は太陽を浴びて鮮やかに咲き誇っていたが、響の気分は最悪だった。
嫌な予感がしていた。
朝一番で入った一本の電話。
雛子の声が少し硬かった。
「今日、伯父が来るんです」
その一言だけで十分だった。
――親族問題。
企業乗っ取りにおいて最も厄介で、最も腐臭のする案件。
感情と利権が絡む。
数字が見えなくなる。
そして大抵、醜い。
「一条さん」
雛子は事務所の窓際で小さく笑った。
「もし怖い人だったら、すみません」
「別に」
響は冷たく答えた。
「慣れてます」
本当に慣れていた。
兄弟間の株式争い。
親子訴訟。
遺産分割。
経営権争奪。
人間は金が絡むと簡単に壊れる。
だから響は人を信じない。
午前十時。
橘園芸の空気が変わった。
自動ドアが開く。
重たい革靴の音。
「おお、雛子ぉ!」
響は顔を上げた。
五十代後半。
腹の出た男。
高級スーツに金時計。
汗の匂いと強い整髪料の臭いが混ざっている。
橘恒一郎。
雛子の伯父だった。
「ご無沙汰しております、伯父様」
雛子が頭を下げる。
だが恒一郎は返さない。
店内を見回し、鼻を鳴らした。
「相変わらず小綺麗にやってんなぁ。花屋ごっこは」
その瞬間、近くにいた社員の空気がぴくりと張った。
響は黙って観察する。
なるほど。
典型的だ。
他人を下に見て威圧することで、自分の優位を確認するタイプ。
「で?」
恒一郎はソファへ乱暴に座った。
「例の話、考えたんだろうな?」
「……まだ検討中です」
「検討ぉ?」
男は鼻で笑った。
「お前みたいな小娘が会社回せてんのは、橘本家の看板があるからだろうが」
雛子は何も言わない。
響は視線を細めた。
社員たちの顔が曇っている。
明るかった空気が、少しずつ濁っていく。
「ま、安心しろ」
恒一郎は鞄から分厚い封筒を取り出した。
「今日はちゃんと話をまとめてきた」
机へ書類を広げる。
「土地管理会社への事業譲渡契約だ。お前のとこの土地資産は、全部うちで運用してやる」
響は無言で資料を見た。
瞬間。
眉が動いた。
「……」
数字が、おかしい。
固定資産評価額。
譲渡割合。
税率計算。
そして借入条件。
一見すると整っている。
だが。
ほんの数%だけ、意図的にズレていた。
気づかない人間は気づかない。
しかし。
響には見えた。
この契約は。
橘園芸の土地を安値で吸い上げるための偽装契約だ。
しかも悪質なのは。
最終的な債務保証だけ、雛子個人へ集中するよう組まれている。
「社長」
響は低く言った。
「サインしないでください」
空気が止まる。
恒一郎の目が細くなった。
「あぁ?」
「この契約書は不適切です」
「何がだ」
響は書類を指先で叩く。
「まず固定資産評価額が旧基準のままです。現行路線価を反映していない」
「……」
「さらに譲渡後の借入返済条件が不自然に短い。資金ショートを前提にしている」
恒一郎の顔色が変わった。
だが響は止まらない。
「そしてこの条項」
ページを開く。
「債務不履行時、個人保証を橘社長へ集中させる構造になっている」
「違う!」
恒一郎が怒鳴った。
「それは普通の――」
「普通ではありません」
響の声は冷たかった。
「これは資産移転を目的とした実質的な搾取契約です」
沈黙。
エアコンの音だけが響く。
社員たちが息を呑んでいた。
恒一郎は額に汗を浮かべる。
「……部外者が口出すな」
「財務顧問ですので」
「若造が知ったような口を!」
「数字は嘘をつきません」
響は真正面から男を見た。
「嘘をついているのは、あなたです」
その瞬間だった。
恒一郎が机を叩いた。
「舐めるな!」
怒号が店内に響く。
客が驚いて振り向いた。
だが響は一歩も引かなかった。
「もしこの契約を強行するなら、金融機関への情報共有を行います」
「……っ」
「税務上も問題があります。調査が入れば困るのはそちらでしょう」
恒一郎の顔が歪む。
完全に図星だった。
数秒後。
「……覚えてろよ」
吐き捨てるように言い、男は書類を乱暴に鞄へ突っ込んだ。
そのまま足音を鳴らしながら出ていく。
自動ドアが閉まり、ようやく静寂が戻った。
誰も喋らない。
響は小さく息を吐いた。
その時。
「一条さん……!」
雛子が両手を握っていた。
目が、ものすごく輝いている。
「すごいです!!」
「……は?」
「かっこよかったです!」
「別に」
「私、全然わかんなかったです!」
でしょうね、と響は思った。
「でも守ってくれたんですよね!?」
「違います」
「え?」
「契約内容が杜撰だっただけです」
「でも怒ってくれました」
「怒ってません」
「怒ってました!」
なぜか嬉しそうだった。
響は疲労感を覚える。
違う。
これは違う。
自分はただ、不正な数字が気に入らなかっただけだ。
あんな雑な契約を見ると反射的に潰したくなる。
ただそれだけ。
そのはずなのに。
「一条さん!」
雛子がぐい、と袖を掴んだ。
「今日、お礼にうなぎ食べに行きましょう!」
「行きません」
「ええー!」
「仕事があります」
「じゃあ高級ほうじ茶!」
「子供じゃないんですから」
「でも嬉しかったんです」
雛子は柔らかく笑った。
「一条さんがいてくれて、よかった」
響は一瞬だけ言葉を失った。
夏の夕陽が窓から差し込む。
向日葵が揺れている。
事務所にはいつもの土と花の匂い。
社員たちの安堵した笑い声。
その真ん中で。
雛子だけが、心の底から安心した顔をしていた。
まるで。
本当に、自分を信じているみたいに。




