第4話 ホワイト企業化計画
第4話 ホワイト企業化計画
六月の湿った風が、橘園芸の自動ドアから流れ込んでいた。
店先の紫陽花は雨粒を抱え、淡い青と紫をゆっくり滲ませている。開店直後だというのに店内は賑わっていた。
「この前テレビで見た薔薇、ありますか?」
「海外に送ってる会社ですよね?」
「動画見て来ました!」
客の声が飛び交う。
レジでは社員たちが忙しそうに動き回り、それでも誰も苛立っていない。
響は事務所の窓からその光景を見下ろし、無表情のまま資料を閉じた。
売上はさらに伸びていた。
海外事業は黒字化。
SNS効果で国内客も増加。
行政との繋がりまで強化。
――最悪だった。
本来なら、資金を少しずつ外へ逃がし、会社を弱らせるはずだった。
だが雛子が動くたび、なぜか企業体力が増していく。
「……なら別の方法だ」
響は低く呟いた。
会社に金があるから駄目なのだ。
余剰資金を吐き出させる。
それも合法的に。
高リスク投資。
失敗すれば数億単位で資金を削れる。
中小企業が一番壊れやすいのは、欲を出した時だ。
「一条さん!」
後ろから明るい声。
雛子が両手で紙袋を抱えて立っていた。
「お昼です! 今日は商店街のコロッケ屋さんですよ!」
「……仕事中です」
「食べないと倒れます」
断定だった。
雛子は机に紙袋を置く。
揚げたての香りが広がった。
じゃがいもと肉の匂い。
少しだけ胡椒が強い。
響の腹が、不本意にも鳴った。
「あ」
雛子が笑う。
「鳴りましたね」
「……聞こえてません」
「聞こえました」
楽しそうだった。
響はため息をつき、椅子に座った。
「社長。午後、財務会議を行います」
「はいっ」
「重要な提案があります」
「またですか?」
雛子は少し嬉しそうだった。
「今度は何が増えるんでしょう」
「減らします」
「ええー」
不満そうな声。
会議室にはエアコンの冷気が静かに流れていた。
外では雨が降り始めている。
窓ガラスを叩く音を聞きながら、響は資料を雛子へ差し出した。
「現在、御社は現預金比率が高すぎる」
「はい」
「資産を遊ばせている状態です」
雛子は真剣な顔で頷く。
響は続けた。
「このままでは成長性が低い。攻めの投資が必要です」
「おお……!」
「海外新興市場ファンド。未公開株投資。レバレッジ型金融商品」
わざと難しい言葉を並べる。
理解できないまま印鑑を押させる。
それが狙いだった。
「リスクはありますが、成功すれば大きな利益を狙える」
「なるほどぉ……」
雛子は資料を見つめる。
その横顔は真面目だった。
響は内心で確信する。
通る。
今度こそ。
だが。
「じゃあ社員NISA制度にしましょう!」
「……は?」
響は固まった。
「社員全員、積立投資できるようにして、会社が補助出すんです!」
「待ってください」
「はい!」
「なぜそうなる」
「だって私、怖い投資苦手なので」
真顔だった。
「でも積立ならコツコツ増えるって聞きました!」
「……」
「あと老後って大事ですよね」
雛子はにこにこしている。
「社員さんたち、安心できた方がいいですし」
「社長」
響は額を押さえた。
「これは会社の成長戦略の話です」
「はい!」
「福利厚生ではない」
「でも人が安心すると、仕事頑張れません?」
またそれだ。
響は思う。
この女は、全部そこへ戻る。
人が幸せかどうか。
それしか判断基準がない。
「……利益率が下がります」
「でも辞めなくなりますよ?」
「……」
「あと求人来ます!」
その時、会議室のドアが開いた。
「失礼します」
藤村梨々花だった。
「社長、今月の離職率報告を」
「ありがとうございます!」
響は何気なく資料を見る。
離職者、ゼロ。
三年連続。
「……異常ですね」
思わず口から漏れた。
「よく言われます!」
雛子は嬉しそうだった。
その一か月後。
「なんですかこれは」
響は朝から頭痛を覚えていた。
机の上に積まれた履歴書。
履歴書。
履歴書。
履歴書。
「応募者、三百二十七名です!」
梨々花が半笑いで言う。
「過去最高更新しました」
「……たかが福利厚生制度で?」
「たかがじゃないですよ」
彼女は真顔になった。
「今、SNSでめちゃくちゃ話題です」
スマホ画面を見せられる。
『社員NISA補助してくれる神会社』
『こんな会社実在するの?』
『園芸会社なのに福利厚生強すぎ』
『離職率ゼロは伊達じゃない』
響は沈黙した。
さらにまずいことに。
「一条さん!」
営業部の若手社員が駆け込んでくる。
「取引先から共同企画の話が!」
「銀行からも面談依頼来てます!」
「大学の新卒説明会、枠増やしてほしいそうです!」
空気が熱い。
活気がある。
誰も疲れた顔をしていない。
響は理解できなかった。
普通は逆だ。
社員に金を使えば利益は減る。
だが橘園芸では、なぜかそれが会社の価値を上げている。
夕方。
雨が止み、濡れた道路が夕焼けを反射していた。
響は一人、休憩スペースの自販機前で缶コーヒーを飲んでいた。
「お疲れですか?」
振り向くと雛子がいた。
手には温かいほうじ茶。
「……別に」
「顔怖いですよ?」
「元々です」
雛子はくすっと笑った。
窓の外では紫陽花が雨露を光らせている。
「でも嬉しいですねぇ」
「何がです」
「みんな安心して働けるって」
静かな声だった。
「私、お父さんが会社で倒れるの見たことあるんです」
響は眉を動かした。
「毎日夜中まで働いて、ずっと疲れてて」
雛子は窓の外を見たまま続ける。
「だから思ったんです。会社って、人を幸せにするためにあるんじゃないかなって」
「……甘い考えです」
「そうかもしれません」
雛子は笑った。
「でも今、みんな笑ってますよ?」
響は返事ができなかった。
事務所の奥から笑い声が聞こえる。
社員たちが何か話している。
疲弊した空気はない。
怒号もない。
誰も怯えていない。
そんな会社を、響は知らなかった。
その時だった。
「一条さん!」
若手社員が顔を出す。
「社長が考えた新制度、社員みんなめちゃくちゃ感謝してます!」
「……そうですか」
「あと実は」
社員が少し笑った。
「“一条さんが提案した制度”って社内で噂になってます」
響は固まった。
「は?」
「みんな言ってますよ。“一条さん怖いけど、めちゃくちゃ社員思いの人だ”って」
その瞬間。
奥で雛子が満面の笑みを浮かべた。
「でしょう!?」
響は生まれて初めて、本気で頭を抱えたくなった。
自分は会社の資金を削るために動いたはずだった。
なのに気づけば。
社員幸福度を爆上げした“超有能CFO”みたいな扱いになっていた。




