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第3話 架空会社が本物になる日

第3話 架空会社が本物になる日


 春の雨が降っていた。


 橘園芸の窓ガラスを細かな雨粒が滑り落ち、曇った空気の向こうで街路樹が揺れている。店先に並ぶラベンダーは濡れて色を深め、湿った土の匂いが店内まで流れ込んでいた。


 閉店後の事務所では、キーボードを叩く音だけが静かに響いている。


 一条響は画面を見つめたまま、無表情で数字を打ち込んでいた。


 ――合同会社グロウスライン。


 資本金十万円。


 実体なし。


 社員なし。


 事務所はバーチャルオフィス。


 響がいくつも所有するペーパーカンパニーの一つだった。


 そこへ、橘園芸から毎月コンサル料を流す。


 表向きは「海外輸出マーケティング支援」。


 実態は資産移転。


 極めて合法的で、極めて静かな搾取。


「……こんなものだ」


 響は小さく呟いた。


 第一段階としては十分だった。


 雛子は契約書をほとんど読まない。疑いもしない。だから簡単に印鑑を押した。


 普通なら、これで終わる。


 だが。


「響さん!」


 ぱたぱたと軽い足音。


 振り返ると、雛子が大量の紙を抱えて駆け込んできた。


 頬が赤い。


 髪には小さな雨粒が光っている。


「大変です!」


「何ですか」


「輸出用の苗木、全然足りません!」


「……は?」


 響は眉をひそめた。


「何の話です」


「え?」


 雛子はきょとんとした。


「だから海外輸出ですよ!」


「……」


「響さんの会社がやってくれるんですよね?」


 嫌な予感がした。


「待ってください」


「はい!」


「誰が、何を、どこへ輸出すると?」


「日本の薔薇です!」


 満面の笑みだった。


「この前、契約書に書いてありました! 海外マーケティングって!」


 響は沈黙した。


 書いた。


 確かに書いた。


 だがそれは“事業実態を偽装するための文言”であって、本当に輸出する話ではない。


「社長」


「はい!」


「あれは形式上の――」


「なので試しに英語版SNS作ったんです!」


 雛子はスマホを突き出した。


 そこには、色鮮やかな写真が並んでいた。


 朝露をまとった薔薇。


 小さな盆栽。


 日本庭園風の寄せ植え。


『Japanese Rose Spirit』


 そんなタイトルまでついている。


「……誰が作ったんですか」


「大学生アルバイトの子です!」


「なぜ」


「だって海外の人にも見てほしいじゃないですか!」


 響は頭痛を覚えた。


 会話が通じない。


 だがもっと問題なのは、そのSNSのフォロワー数だった。


 三万二千。


「……なんだこれは」


「あっ、昨日海外でバズったみたいです!」


「バズ?」


「はい! なんかアメリカの有名な園芸アカウントさんが紹介してくれて!」


 響は絶句した。


 画面には英語のコメントが大量に並んでいた。


『Beautiful!』


『I need this rose!』


『Japanese gardening is art!』


 注文フォームまで設置されている。


 しかも。


「……受注、入ってるのか」


「はい!」


 雛子は嬉しそうに頷いた。


「シンガポールと台湾とカナダです!」


 響はしばらく動かなかった。


 雨音だけが響く。


 おかしい。


 完全におかしい。


 本来なら、これは資金流出スキームの一部だった。


 だが今、グロウスラインには“実際の業務”が発生している。


 その時だった。


「社長、大変です!」


 経理主任の藤村梨々花が飛び込んできた。


「海外から追加発注メールが!」


「ほんとですか!?」


「あと税関関係の確認が必要で……」


「一条さん!」


 雛子が勢いよく振り向く。


「海外輸出って、すっごく大変なんですね!」


「……」


「でも楽しいです!」


 目がきらきらしていた。


 響は思わず額を押さえた。


 その三週間後。


 響は自分のマンションで、一人無言になっていた。


 深夜一時。


 窓の外では首都高のライトが流れている。


 無機質な高層マンションの一室。


 コーヒーは冷え切っていた。


 ノートパソコンの画面には、グロウスラインの口座残高。


「……なんだこれは」


 利益が出ていた。


 しかも普通に。


 輸出事業が黒字化している。


 広告費を引いても利益率は悪くない。


 いや、それどころか。


「伸びてる……?」


 響は信じられない気持ちで数字を追った。


 リピート率が異常に高い。


 海外では“日本式園芸”が高級趣味として広まり始めていた。


 さらに雛子が始めた動画配信がまずかった。


『祖父から受け継いだ薔薇の育て方』


『日本の春の寄せ植え』


『雨の日の盆栽手入れ』


 それが海外で「癒される」と話題になっていた。


 コメント欄には、


『この女性の笑顔が好き』


『見てると落ち着く』


『人生を丁寧に生きたくなる』


 など意味不明な熱狂が並んでいる。


「なんでだ……」


 響は低く呟いた。


 こんなもの、ただの園芸動画だ。


 だが数字は嘘をつかない。


 再生数は増え続け、注文も増えている。


 その時。


 スマホが鳴った。


 雛子だった。


「もしもし一条さん!? 起きてました!?」


「……夜中の一時です」


「大変なんです!」


 またか、と響は思った。


「今度は何です」


「フランスから問い合わせが来ました!」


「……は?」


「盆栽を百個ほしいそうです!」


「断ってください」


「ええっ!?」


 電話越しに本気で驚く声。


「なんでですか!?」


「輸送管理が追いつかない。検疫も複雑です。今の人員では無理だ」


「じゃあ人を増やしましょう!」


「簡単に言わないでください」


「でもお客様困っちゃいますよ!」


 響は黙った。


 困るのはこっちだ。


 なぜなら今やグロウスラインは、完全に“実在する事業会社”になり始めている。


 本来なら数年後に切り捨てるはずの幽霊会社だった。


 それが今、海外売上を生み始めている。


「一条さん?」


 雛子の声が少し柔らかくなる。


「……怒ってます?」


「別に怒ってません」


「よかったぁ」


 電話の向こうで小さく笑う気配。


「私、一条さんが作ってくれたお仕事、好きです」


 響は息を止めた。


「海外の人が、日本のお花見て喜んでくれるんですよ?」


「……」


「なんか、嬉しいですね」


 静かな声だった。


 響は返事ができなかった。


 窓の外では都会の光が滲んでいる。


 画面には黒字決算。


 増え続ける売上。


 そして。


 自分が仕掛けた“偽の事業”によって、本当に誰かが喜んでいるという現実。


 理解不能だった。


 だが同時に。


 胸の奥で、何かが微かに狂い始めていることを、響はまだ知らなかった。



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