第2話 無駄な慈善事業
第2話 無駄な慈善事業
朝から冷たい風が吹いていた。
橘園芸の店先では、並べられたビオラの花びらが小さく震えている。空は青いのに空気だけが冬の匂いを含んでいて、吐く息はうっすら白かった。
店の前を掃除していた雛子が、竹ぼうきを動かしながら笑う。
「おはようございます、一条さん」
「おはようございます」
響は黒いコートの襟を整えながら答えた。
橘園芸に来て二週間。
響はこの会社の異常性を少しずつ理解し始めていた。
利益率は高くない。派手な事業もない。だが金が減らない。
理由は明白だった。
固定客の異常な忠誠心。
取引先との強固すぎる信頼。
そして社員の献身。
だが響に言わせれば、それは非効率の塊でもあった。
情に頼った経営は、必ずどこかで破綻する。
だから今日は、最初のメスを入れる。
「社長、午前中に会議の時間をいただけますか」
「はいっ」
雛子は嬉しそうに頷いた。
「経営改善案ですね!」
その笑顔を見ながら、響は静かに思う。
そうだ。
改善だ。
まずは無駄を切る。
そこから資金の流れを握る。
企業を落とす時の基本だった。
会議室にはほうじ茶の香りが漂っていた。
窓辺には小さな白薔薇が飾られ、冬の日差しを浴びている。
響はノートパソコンを開き、淡々と数字を並べた。
「現在、御社は年間約九百万円を地域活動に支出しています」
「はい」
「そのうち、高齢者施設への無料配布が約三百万円」
雛子はこくりと頷いた。
「お花、喜んでくださるんですよ」
「利益にはなりません」
ぴたり、と空気が止まった。
だが雛子は怒らなかった。
ただ不思議そうに瞬きをする。
「利益?」
「ええ。会社は慈善団体ではない」
響は資料をめくった。
「特にこの無料配布。継続的な売上への寄与が見えない。費用対効果が極めて低い」
「ひようたいこうか……」
「簡単に言えば、払った金に見合う利益がないということです」
「あー」
雛子は納得したように頷いた。
響は内心で冷笑する。
押せる。
この手の人間は、数字を並べれば簡単に揺らぐ。
「よって私は、この無料配布事業の停止を提案します」
静かな声で告げた。
窓の外で風が木々を鳴らす。
数秒、沈黙。
そして。
「なるほど!」
雛子がぱっと顔を上げた。
「じゃあ薔薇園作りましょう!」
「……は?」
響は固まった。
「え?」
「だから無料で渡すだけじゃなくて、一緒に育てた方が楽しいですよね?」
「……何を言っているんですか」
「施設の中庭、空いてるんです。前に行った時、おじいちゃんたちが『土を触りたい』って言ってて」
雛子は身を乗り出した。
「だから花壇じゃなくて、本格的な薔薇園にしましょう! ベンチも置いて! 車椅子でも入れるようにして!」
「待ってください」
響は眉間を押さえた。
「支出を削減する話です」
「はい!」
「なぜ増やすんです」
「だって絶対その方が喜びます」
真顔だった。
響は一瞬、本気で頭痛を覚えた。
「社長。感情論で経営を――」
「一条さん」
雛子がふわりと笑う。
「私、数字は苦手なんです。でも、人が嬉しい時の顔はわかります」
「……」
「それって、だめですか?」
その言葉に、響はほんのわずか詰まった。
だがすぐに理性で押し潰す。
駄目に決まっている。
企業は利益を出して生き残るものだ。
善意では経営できない。
「……好きにしてください」
響は冷たく言った。
「ただし私は反対です」
「はい!」
なのに雛子は嬉しそうだった。
「じゃあ設計考えましょう!」
「聞いてました?」
「聞いてました!」
駄目だ。
会話が成立しない。
響は深く息を吐いた。
その一か月後。
「……なんだこれは」
響は駅前のコンビニで、地域新聞を凝視していた。
一面の下半分。
大きな写真付き記事。
『高齢者と子供をつなぐ薔薇園 橘園芸の地域交流事業が話題』
写真の中央では、土まみれになった老人たちが笑っている。
その隣で雛子が満面の笑顔を浮かべていた。
響は嫌な予感を覚えながら記事を読む。
市が福祉モデル事業として注目。
地域活性化支援補助金決定。
園芸療法として大学から共同研究依頼。
「……は?」
その日の午後。
橘園芸の店舗は異常な混雑だった。
「新聞見たよ!」
「うちの母も施設にいるんです!」
「薔薇苗、同じやつありますか?」
レジ前には列。
店内には土と花の濃い香り。
子供の笑い声。
響は呆然と立ち尽くしていた。
「一条さん!」
雛子が駆け寄ってくる。
頬が赤い。
「すごいです! 今月の売上、過去最高かもしれません!」
「……なぜ」
「え?」
「なぜ、こうなる」
本気でわからなかった。
赤字事業を切るはずだった。
なのに結果は逆。
顧客が増え、行政との繋がりまでできている。
しかも。
「社長ー!」
入口から車椅子の老人が手を振った。
「薔薇、咲いたよ!」
「ほんとですか!?」
雛子がぱっと笑う。
その笑顔を見た瞬間、店内の空気まで明るくなった気がした。
老人も笑う。
子供も笑う。
社員も笑っている。
響だけが理解できない。
「一条さん!」
雛子がくい、と袖を引いた。
「見に行きましょうよ、薔薇園!」
「……仕事があります」
「たまには外、行きましょう?」
柔らかい手だった。
響はなぜか、その手を振り払えなかった。
夕方。
施設の中庭には、淡い夕陽が落ちていた。
新しく作られた花壇から、湿った土の匂いが立ち上る。
冬薔薇が風に揺れていた。
「社長ちゃん!」
「今日は元気ないねえ!」
「一条さんっていうんです!」
「お、イケメン!」
老人たちが笑う。
雛子も笑う。
響はただ立ち尽くしていた。
冷たい風が頬を撫でる。
その時だった。
「ありがとうねぇ」
しわだらけの手が、響の手を握った。
「また花を見られるなんて思わなかった」
温かかった。
響は言葉を失う。
雛子が少し離れた場所で笑っている。
夕焼けの中、その横顔だけが妙に眩しく見えた。
そして響は、生まれて初めて理解できない敗北感を味わっていた。
自分は確かに、“合理的には正しい提案”をしたはずなのに。
なぜか、この会社では。
人を喜ばせる方が、勝ってしまう。




