第1話 獲物
第1話 獲物
雨上がりの夕方だった。
武蔵野の空には薄い灰色の雲が残り、濡れたアスファルトが鈍く光っている。駅前のチェーン居酒屋から漂う油の匂いを横切りながら、一条響は無表情で古びた四階建てのビルを見上げた。
――橘園芸。
色褪せた看板。昭和の空気を残した外壁。入口脇には季節外れのパンジーが並び、小さな黒板には手書きでこう書かれていた。
『雨の日はポイント2倍です』
「……古いな」
響は鼻で笑った。
こんな会社が、なぜ生き残っているのか。
彼は三日前、その理由を帳簿で知った。
内部留保二十億。
無借金。
しかも土地資産込みなら三十億近い。
だが売上は平凡。急成長企業でもない。海外展開もしていない。財務内容だけが異様に美しい。
まるで老人が箪笥預金を抱え込んでいるような会社だった。
「理想的なカモだ」
響は小さく呟き、ガラス扉を押した。
途端に、湿った土と花の匂いが鼻をくすぐった。
甘すぎない。生きた植物の匂いだった。
「わあっ! 一条さんですか!?」
ぱたぱたと軽い足音が響く。
振り向くと、クリーム色のカーディガンを羽織った女が駆けてきた。肩までの柔らかい髪が揺れ、丸い瞳が子供みたいに輝いている。
「本日から財務顧問としてお世話になります、橘雛子です!」
ぺこり、と勢いよく頭を下げる。
響は一瞬だけ黙った。
若い。
いや、若すぎる。
二十代半ばほどにしか見えない。
こんな女が二十億の会社を持っているのか。
「一条響です。こちらこそよろしくお願いします」
営業用の笑みを浮かべる。
雛子は安心したように頬を緩めた。
「よかったぁ。もっと怖い人かと思ってました」
「怖い?」
「だって外資系コンサルの人って、みんな秒でクビにするとか聞くので」
「必要ならしますよ」
響が淡々と答えると、雛子は「ひえぇ」と肩をすくめた。
芝居じみた反応だった。
――軽い。
響は心の中で切り捨てた。
この手の経営者は扱いやすい。情で動き、数字を読まない。だから騙される。
「ではまず、財務資料を」
「あっ、その前に!」
雛子は両手を合わせた。
「コーヒー飲みます? それともほうじ茶? 今日すっごく寒いですよね」
「……結構です」
「えー、遠慮しないでください。うち、ほうじ茶だけは高級なんです」
言いながら笑う。
緊張感がない。
響は内心で呆れた。
この会社は、近いうちに自分のものになる。
数年かけてもいい。信頼を得て、資金の流れを握り、不要部門を切り、資産を整理する。そして最終的には会社ごと売る。
いつもの手順だ。
そのはずだった。
だが。
最初の違和感は、午後六時に訪れた。
「お疲れ様でしたー!」
「社長、今日は白菜持って帰ります?」
「おう、また明日な!」
オフィスの奥から次々と声が飛ぶ。
社員たちが笑いながら帰っていく。
響は腕時計を見た。
十八時〇二分。
経理部も営業部も、ほとんど空席だった。
「……定時退社ですか?」
「はい?」
「この規模で?」
雛子はきょとんとした。
「え? はい。だって残業すると疲れちゃいますし」
「繁忙期でしょう」
「でも夜は植物も休む時間ですから」
「……は?」
「人間も休まないと枯れますよ?」
響は言葉を失った。
意味がわからない。
普通、中小企業は人件費を削り、長時間労働で回す。まして園芸業界など薄利だ。こんな経営で利益が出るわけがない。
だが実際、出ている。
しかも異常なほど健全に。
「失礼します」
背後から声がした。
細身の女性社員が書類を抱えて立っている。
「社長、来月の老人ホーム向け寄付分、発注通しました」
「あ、ありがとうございます!」
「あと商店街の花壇イベント、子供たちがまた参加したいそうです」
「ほんとですか!? わー、嬉しい!」
二人は楽しそうに笑った。
響は眉をひそめる。
寄付?
地域イベント?
そんなものは利益を食うだけだ。
しかも驚いたことに、その女性社員は響へ軽く頭を下げてから自然に言った。
「一条さんもお疲れ様でした。無理しすぎないでくださいね」
響は一瞬、返答に詰まった。
警戒も媚びもない。
まるで昔からの同僚に向けるような口調だった。
社員が帰り切った後、オフィスは急に静かになった。
窓の外では小雨がまた降り始めている。
ぽつ、ぽつ、と雨粒がガラスを叩く音だけが響いた。
響は一人、会議室で資料をめくる。
完璧だった。
財務は異常なほど堅い。
売掛回収率も高い。
離職率はゼロ。
銀行評価も異様に高い。
「……なんだ、この会社」
薄気味悪さすら感じた。
そこへ、ふわりと香ばしい匂いが漂った。
「やっぱり飲みます?」
雛子が湯気の立つ湯呑みを差し出していた。
「ほうじ茶です」
響は無言で受け取った。
温かい。
指先にじんわり熱が広がる。
一口飲むと、香ばしさが喉を抜けた。
「……うまいですね」
「でしょう?」
雛子は嬉しそうに笑った。
窓の外で雨音が強くなる。
古いオフィス。
静かな灯り。
植物の匂い。
笑う社長。
そして理解できないほど穏やかな空気。
響は湯呑みを見つめながら、静かに思った。
――この会社は、おかしい。
だが同時に。
彼の中の冷たい計算機は、確かにこう弾き出していた。
だからこそ、価値がある、と。




