第10話 白い結婚の、その先に
婚姻無効の通知は、春の朝に届いた。
教会審査院の封蝋。厚い羊皮紙に、審査官の署名と教会の紋章。文面は簡潔だった。
『フォーリス伯爵セドリック・フォーリスとノエル・ラヴィエールの婚姻は、白い結婚の成立を認め、本日をもって無効と宣言する。嫁入り支度金の全額返還を命ずる』
書類を膝の上に置いた。窓から春の風が入ってきて、紙の端がめくれた。
……五年と三ヶ月。長い結婚だった。
白い結婚。何も書かれていない、白紙の婚姻。五年間、そこに何も書き込めなかった。夫の名前も、自分の居場所も、笑った記憶も。
——でも、それは今日で終わる。
白紙に戻った。今度は、自分で何を書くか決められる。
書類を丁寧に畳んで、引き出しにしまった。セドリックの未開封の手紙が、まだ奥にあった。赤い封蝋。もう、どうでもいい。
「奥方様——あ。いえ、もう……」
マルトが紅茶を持ってきて、呼び方に迷って口ごもった。
「奥方様でいいわ、マルト。あなたにとって私は、いつまでも奥方様でしょう」
マルトが鼻をすすった。泣いてはいない。泣きそうなだけだ。この人は、昔からそうだ。
◇
表彰式は、王宮の大広間で行われた。
領主会議に併設された式典。壇上には国王の名代として宰相が立ち、受勲者の名を読み上げていく。
私の名前が呼ばれた時、広間が少しざわめいた。「元フォーリス伯爵夫人」——その肩書きは、社交界では別の意味で知られていたはずだ。体が弱くて何もできない妻。夫の成功を支える影の存在。
壇上に立った。大勢の目が、こちらを見ている。
「救療院主任医師ノエル・ラヴィエール嬢に、王宮より医療貢献の表彰を授与いたします」
宰相から表彰状を受け取った。手が震えなかった。一年前なら——いや、半年前でも、こんな場所に立てたかどうかわからない。
「一言、よろしいでしょうか」
宰相が頷いた。
「この功績は——フォーリス領の領民が、私を必要としてくれたからです」
それだけ言った。多くは語らなかった。語るべきことは、数字が全て言ってくれている。
拍手が起きた。広間のあちこちから。
領主席の端に、セドリックがいた。監査中の身として出席を義務づけられている。表情を保とうとしていた。あの社交の仮面を。けれど、拍手の中では仮面の意味がない。
目が合った。一瞬だけ。
私は壇上から、客席に目を移した。レナード先生が——レナードが、壁際に立っていた。腕を組んでいない。拍手をしていた。不器用に。少しぎこちなく。
◇
表彰式の後、廊下を歩いていたら、足音が追いかけてきた。
「ノエル」
セドリックの声だった。
立ち止まった。振り返った。最後だ。これが最後の会話になるだろうと、わかっていた。
セドリックは——少し、やつれていた。社交の仮面の下に、疲弊が滲んでいる。監査が始まって一ヶ月。この一ヶ月で、この人は五年分の帳尻を突きつけられたのだろう。
「ノエル、俺は——」
「伯爵」
遮った。穏やかに。
「伯爵にはリリアーヌ様がおいでです。お困りのことなど、ないでしょう」
微笑んだ。
五年間、そうしてきたように。あの薄い、完璧な微笑み。社交の場で何百回と使ってきた、あの顔。
——いや。
今の微笑みは、少し違う。
もう武器ではない。もう仮面でもない。ただの——別れの挨拶。この人に向ける、最後の礼儀。
背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。
廊下の窓から、春の光が差し込んでいた。白い光だ。冬が終わったのだ。
◇
救療院に戻ったのは、夕方だった。
中庭のベンチに座って、春風に当たっていた。医局に戻る気力が、少しだけ足りなかった。長い一日だった。長い——五年間だった。
「……ひとつ、聞きたいことがある」
レナードの声がした。
顔を上げた。中庭の入り口に立っている。白衣を着ていない。私服だ。珍しい。少しだけ——ほんの少しだけ、そわそわしているように見えた。この人がそわそわするのは、初めて見る。
「……何ですか」
「——俺と一緒に、国中の救療院を回らないか」
声が低い。いつもより、少しだけ低い。
「お前の医療制度を、他の領地にも広めたい。王宮からも許可が出る見込みだ。西部から始めて、半年かけて主要な救療院を——」
説明が長い。この人にしては。
「……レナード先生」
先生、と呼んだ。まだ、この呼び方だ。
「それは——仕事としての提案ですか?」
レナードが、黙った。
三秒。五秒。この人の沈黙は長い。いつも、言葉を選んでいる。自分の感情にどう形を与えるか、ずっと迷っている。
「……仕事だけなら、こんなに緊張しない」
声が掠れていた。
腕を——組もうとして、途中でやめた。両手が所在なさげに下がっている。大きな手だ。メスを握る手。上着を肩にかける手。夜食を置く手。蝋燭を寄せる手。処方を書き写す手。
全部、知っている。この手が何をしてきたか。二年前から。いや——ずっと前から。
「……レナード」
先生を、外した。
初めて名前で呼んだ。声が震えなかった。
「はい。喜んで」
笑った。
微笑みではなかった。
口の端が上がって、頬が動いて、目が細くなって——笑った。五年間、一度もできなかった笑い方。こんな顔ができるのだと、自分でも知らなかった。
立ち上がった。レナードの前に立った。
この人は背が高い。見上げなければならない。でも、見上げるのは嫌ではなかった。
つま先立ちになった。
レナードの唇に、自分の唇を押し当てた。
——短いキスだった。不器用だった。角度も合っていなかったかもしれない。五年間の白い結婚では、こういうことの練習をする機会がなかった。
離れた。レナードの顔を見た。
この人が——この無愛想で、不器用で、必要なこと以外は話さない人が、耳まで赤くなっていた。
「……おい」
「何ですか」
「……先に、やるな。心臓が止まるかと思った」
笑った。また笑った。二回目の笑顔。こんなに簡単に笑えるのか。
中庭の木に、新芽が出ていた。春だ。
◇
——数ヶ月後。
馬車が、西部街道を走っている。
王国西部の救療院を巡回する仕事が始まって、三週間になる。馬車の中は狭い。荷物が多い。薬草の箱と、書類の束と、着替えの鞄。
私は膝の上で薬草のメモを書いていた。西部の気候に合った調合を考えなければならない。湿度が高い地域では、カモミールの乾燥温度を変える必要がある。
隣で、レナードが黙ってリンゴの皮を剥いている。
小刀の使い方が上手い。さすが外科医だ。皮が途切れずに、一本の螺旋になって垂れ下がっていく。
切り分けたリンゴを、何も言わずに私の膝の上のメモの横に置いた。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「全部」
レナードが、横を向いた。耳が赤い。この人は褒められると耳が赤くなる。何度見ても、飽きない。
馬車の窓から、春の野原が見えた。菜の花が咲いている。黄色い絨毯が、丘の向こうまで続いている。
リンゴを一切れ口に入れた。甘かった。
——セドリック・フォーリスの爵位は、王家の監査の結果、伯爵から男爵相当に降格された。リリアーヌ・ベルトランは、降格の決定が出た翌日にフォーリス邸を去ったと聞いた。
聞いただけだ。それ以上は知らない。知る必要もない。
私の帳簿は、新しい頁を開いている。白い頁。今度は、自分で何を書くか決められる。
隣にいる人の肩が、馬車の揺れで時々ぶつかる。そのたびに「……すまない」と小さく言う。何回ぶつかっても、同じように言う。
「レナード」
「何だ」
「ぶつかっても、いいですよ」
レナードが黙った。三秒。五秒。
「……そうか」
短い。いつもの一言。
でもその後、肩がぶつかっても、もう謝らなくなった。
馬車が揺れる。春の風が窓から入ってくる。薬草のメモが風にめくれる。リンゴの甘さが、まだ舌に残っている。
悪くない。
悪くない人生だ、これは。




