表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚の終わり  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 白い結婚の、その先に


 婚姻無効の通知は、春の朝に届いた。


 教会審査院の封蝋。厚い羊皮紙に、審査官の署名と教会の紋章。文面は簡潔だった。


『フォーリス伯爵セドリック・フォーリスとノエル・ラヴィエールの婚姻は、白い結婚の成立を認め、本日をもって無効と宣言する。嫁入り支度金の全額返還を命ずる』


 書類を膝の上に置いた。窓から春の風が入ってきて、紙の端がめくれた。


 ……五年と三ヶ月。長い結婚だった。


 白い結婚。何も書かれていない、白紙の婚姻。五年間、そこに何も書き込めなかった。夫の名前も、自分の居場所も、笑った記憶も。


 ——でも、それは今日で終わる。


 白紙に戻った。今度は、自分で何を書くか決められる。


 書類を丁寧に畳んで、引き出しにしまった。セドリックの未開封の手紙が、まだ奥にあった。赤い封蝋。もう、どうでもいい。


「奥方様——あ。いえ、もう……」


 マルトが紅茶を持ってきて、呼び方に迷って口ごもった。


「奥方様でいいわ、マルト。あなたにとって私は、いつまでも奥方様でしょう」


 マルトが鼻をすすった。泣いてはいない。泣きそうなだけだ。この人は、昔からそうだ。



 表彰式は、王宮の大広間で行われた。


 領主会議に併設された式典。壇上には国王の名代として宰相が立ち、受勲者の名を読み上げていく。


 私の名前が呼ばれた時、広間が少しざわめいた。「元フォーリス伯爵夫人」——その肩書きは、社交界では別の意味で知られていたはずだ。体が弱くて何もできない妻。夫の成功を支える影の存在。


 壇上に立った。大勢の目が、こちらを見ている。


「救療院主任医師ノエル・ラヴィエール嬢に、王宮より医療貢献の表彰を授与いたします」


 宰相から表彰状を受け取った。手が震えなかった。一年前なら——いや、半年前でも、こんな場所に立てたかどうかわからない。


「一言、よろしいでしょうか」


 宰相が頷いた。


「この功績は——フォーリス領の領民が、私を必要としてくれたからです」


 それだけ言った。多くは語らなかった。語るべきことは、数字が全て言ってくれている。


 拍手が起きた。広間のあちこちから。


 領主席の端に、セドリックがいた。監査中の身として出席を義務づけられている。表情を保とうとしていた。あの社交の仮面を。けれど、拍手の中では仮面の意味がない。


 目が合った。一瞬だけ。


 私は壇上から、客席に目を移した。レナード先生が——レナードが、壁際に立っていた。腕を組んでいない。拍手をしていた。不器用に。少しぎこちなく。



 表彰式の後、廊下を歩いていたら、足音が追いかけてきた。


「ノエル」


 セドリックの声だった。


 立ち止まった。振り返った。最後だ。これが最後の会話になるだろうと、わかっていた。


 セドリックは——少し、やつれていた。社交の仮面の下に、疲弊が滲んでいる。監査が始まって一ヶ月。この一ヶ月で、この人は五年分の帳尻を突きつけられたのだろう。


「ノエル、俺は——」

「伯爵」


 遮った。穏やかに。


「伯爵にはリリアーヌ様がおいでです。お困りのことなど、ないでしょう」


 微笑んだ。


 五年間、そうしてきたように。あの薄い、完璧な微笑み。社交の場で何百回と使ってきた、あの顔。


 ——いや。


 今の微笑みは、少し違う。


 もう武器ではない。もう仮面でもない。ただの——別れの挨拶。この人に向ける、最後の礼儀。


 背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。


 廊下の窓から、春の光が差し込んでいた。白い光だ。冬が終わったのだ。



 救療院に戻ったのは、夕方だった。


 中庭のベンチに座って、春風に当たっていた。医局に戻る気力が、少しだけ足りなかった。長い一日だった。長い——五年間だった。


「……ひとつ、聞きたいことがある」


 レナードの声がした。


 顔を上げた。中庭の入り口に立っている。白衣を着ていない。私服だ。珍しい。少しだけ——ほんの少しだけ、そわそわしているように見えた。この人がそわそわするのは、初めて見る。


「……何ですか」

「——俺と一緒に、国中の救療院を回らないか」


 声が低い。いつもより、少しだけ低い。


「お前の医療制度を、他の領地にも広めたい。王宮からも許可が出る見込みだ。西部から始めて、半年かけて主要な救療院を——」


 説明が長い。この人にしては。


「……レナード先生」


 先生、と呼んだ。まだ、この呼び方だ。


「それは——仕事としての提案ですか?」


 レナードが、黙った。


 三秒。五秒。この人の沈黙は長い。いつも、言葉を選んでいる。自分の感情にどう形を与えるか、ずっと迷っている。


「……仕事だけなら、こんなに緊張しない」


 声が掠れていた。


 腕を——組もうとして、途中でやめた。両手が所在なさげに下がっている。大きな手だ。メスを握る手。上着を肩にかける手。夜食を置く手。蝋燭を寄せる手。処方を書き写す手。


 全部、知っている。この手が何をしてきたか。二年前から。いや——ずっと前から。


「……レナード」


 先生を、外した。


 初めて名前で呼んだ。声が震えなかった。


「はい。喜んで」


 笑った。


 微笑みではなかった。


 口の端が上がって、頬が動いて、目が細くなって——笑った。五年間、一度もできなかった笑い方。こんな顔ができるのだと、自分でも知らなかった。


 立ち上がった。レナードの前に立った。


 この人は背が高い。見上げなければならない。でも、見上げるのは嫌ではなかった。


 つま先立ちになった。


 レナードの唇に、自分の唇を押し当てた。


 ——短いキスだった。不器用だった。角度も合っていなかったかもしれない。五年間の白い結婚では、こういうことの練習をする機会がなかった。


 離れた。レナードの顔を見た。


 この人が——この無愛想で、不器用で、必要なこと以外は話さない人が、耳まで赤くなっていた。


「……おい」

「何ですか」

「……先に、やるな。心臓が止まるかと思った」


 笑った。また笑った。二回目の笑顔。こんなに簡単に笑えるのか。


 中庭の木に、新芽が出ていた。春だ。



 ——数ヶ月後。


 馬車が、西部街道を走っている。


 王国西部の救療院を巡回する仕事が始まって、三週間になる。馬車の中は狭い。荷物が多い。薬草の箱と、書類の束と、着替えの鞄。


 私は膝の上で薬草のメモを書いていた。西部の気候に合った調合を考えなければならない。湿度が高い地域では、カモミールの乾燥温度を変える必要がある。


 隣で、レナードが黙ってリンゴの皮を剥いている。


 小刀の使い方が上手い。さすが外科医だ。皮が途切れずに、一本の螺旋になって垂れ下がっていく。


 切り分けたリンゴを、何も言わずに私の膝の上のメモの横に置いた。


「……ありがとうございます」

「何がだ」

「全部」


 レナードが、横を向いた。耳が赤い。この人は褒められると耳が赤くなる。何度見ても、飽きない。


 馬車の窓から、春の野原が見えた。菜の花が咲いている。黄色い絨毯が、丘の向こうまで続いている。


 リンゴを一切れ口に入れた。甘かった。


 ——セドリック・フォーリスの爵位は、王家の監査の結果、伯爵から男爵相当に降格された。リリアーヌ・ベルトランは、降格の決定が出た翌日にフォーリス邸を去ったと聞いた。


 聞いただけだ。それ以上は知らない。知る必要もない。


 私の帳簿は、新しい頁を開いている。白い頁。今度は、自分で何を書くか決められる。


 隣にいる人の肩が、馬車の揺れで時々ぶつかる。そのたびに「……すまない」と小さく言う。何回ぶつかっても、同じように言う。


「レナード」

「何だ」

「ぶつかっても、いいですよ」


 レナードが黙った。三秒。五秒。


「……そうか」


 短い。いつもの一言。


 でもその後、肩がぶつかっても、もう謝らなくなった。


 馬車が揺れる。春の風が窓から入ってくる。薬草のメモが風にめくれる。リンゴの甘さが、まだ舌に残っている。


 悪くない。


 悪くない人生だ、これは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なぜ元夫は主人公を冷遇して助言者とやらを優先したのか? なぜ軍医は主人公に惚れたのか?口の上手い男に見切りをつけたばかりの主人公も軍医の好意に心を開いたのか? なぜ侍女は主人公に付き従ったのか?なぜ五…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ