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運命の人、、か?

夜の動物園というものがあるらしい。

先生に金曜日の動物園を勧められてから、いくつか調べてみた。


普通の動物園は夕方には閉まってしまうけれど、期間限定で夜間営業しているところがあった。

ちょうど金曜日。

仕事を終えてからでも、間に合いそうだった。


……そんな都合のいいこと、あるんだ。


そして、金曜日の夜。

本当に動物園に来てしまった。


日が沈んだ園内には、ぽつぽつと明かりが灯っていた。

小さな子どもを連れた家族や、手をつないで歩くカップル。

思っていたより人はいたけれど、昼間の動物園ほど賑やかではない。


少し涼しい風が吹いていた。

私は園内マップを広げた。


夜行性の動物たちが、普段とは違う姿を見せてくれるらしい。


フクロウ、ヤマアラシ、レッサーパンダ。


……あ。


カピバラ。


私は、なんとなくそちらへ向かった。


カピバラは、寝ていた。


「…………」


私は柵の前で立ち止まった。

大きな体を地面につけて、目を閉じている。


動かない。

本当に、全然動かない。


……そういえば。

カピバラって夜行性だっけ?


私は首をかしげた。


せっかく夜の動物園に来たのに、昼間とあまり変わらない姿をしている。

でも、なんだか目が離せなかった。


丸い背中。

地面に投げ出された短い足。

たまに、鼻だけがぴくぴく動く。


……いいなあ。


何も考えてなさそうで。

私は柵のそばに立ったまま、ぼんやり眺めていた。

周りにはあまり人がいなかった。

遠くで子どもの声が聞こえる。

私は売店で買った飲み物を一口飲んだ。


少し変わった色をしている。

「夜のジャングルソーダ」という名前だった。

緑色の炭酸に、青いゼリーが沈んでいる。


確かに、ジャングルっぽい。


もう一口飲もうとして、カップを持ち直した。

そのとき。


「あっ」


手が滑った。


「あああっ……!」


飲み物がカップの縁からこぼれ、手とシャツの裾にかかった。

慌てて持ち直したけれど、もう遅かった。

緑色の液体が、指先からぽたぽた落ちている。


「……うわあ」


やってしまった。

私は鞄からティッシュを探した。


ない。

こういうときに限って。


「……あの、大丈夫ですか?」


隣から声がした。

顔を上げると、男の人が立っていた。

三十歳くらいだろうか。

眼鏡をかけていて、少し柔らかそうな髪。

細い縞模様の入った、襟付きのシャツを着ていた。袖は肘のあたりまでまくっている。

仕事帰りのようにも見えるけれど、どこか休日みたいな、気の抜けた雰囲気があった。


「あっ、大丈夫です!」


「結構こぼれちゃいましたね」


「そうなんですよ……」


彼は鞄から何かを取り出した。


「よかったら、これ使ってください」


ハンカチだった。

私は受け取ろうとして、少し手を止めた。


「……あ」


薄い水色の布に、小さなカピバラが何匹も描かれていた。

一匹は寝ている。

一匹は水に浸かっている。

一匹は、なぜか葉っぱを頭に乗せていた。


……かわいい。


私は思わず顔を上げた。


「カピバラだ」


男の人は、私の視線に気づいて微笑んだ。


「ああ、そうなんです」


「かわいいですね」


「ありがとうございます。ここに来るなら、ちょうどいいかなと思って」


私は、思わず笑った。


「すみません。お借りしてもいいですか?」


「もちろん。使ってください」


私はハンカチで指先を拭いた。

幸い、服にはあまりかかっていなかった。


「ああ、助かりました。ありがとうございます」


「いえいえ。夜だから、手元も見えにくいですよね」


「まあ、でも私、夜でも昼でも、いつでもよくこぼすので」


男の人は、ふっと笑った。


「……ああ、なんかわかります」


「わかります?」


「僕も、集中してるとコーヒーこぼすんですよ。よく」


「えっ、そうなんですか?」


「はい。何か見ながら飲もうとすると、だいたい危ないですね」


私は思わず笑った。


「こぼれますよね!」


「こぼれますねえ」


彼も笑った。


私は、ハンカチを見た。


「……あの、これ、汚しちゃって」


「ああ、気にしないでください。洗えば落ちますから」


「でも、かわいいハンカチなのに」


「大丈夫ですよ」


彼は少し笑った。


「カピバラですし」


私は首をかしげた。


「……カピバラですし?」


「多少のことは気にしない性格なんですよ」


私は、柵の向こうを見た。

カピバラは、相変わらず寝ていた。


「……なるほど」


二人で、少しの間カピバラを眺めた。

彼がぽつりと言った。


「……寝てますねえ」


「寝てますね」


「僕、この子を見に来たんですけど」


「そうなんですか?」


「はい。仕事終わりに急いで来たんです」


私は、眠っているカピバラを見た。


「……間に合わなかったですね」


「そうなんですよ」


彼は、少し残念そうに、でも楽しそうに笑った。


「まあ、寝顔も見られたので、よかったです」


私は、またカピバラを見た。

そして、なんとなく思った。

この人と話していると、変に緊張しない。

ただ、隣に立って、同じものを見ている。

それが、不思議と心地よかった。


先生の言葉が、ふと頭をよぎった。

金曜日、動物園に行ってみてください。

面白い出会いがあるかもしれません。


私は、隣にいる男の人をちらっと見た。

彼は、まだカピバラを眺めていた。


そのとき、彼がこちらを向いた。


「そういえば」


「はい」


「さっきから、ここにずっといらっしゃいましたよね」


「あ、はい」


「カピバラ、お好きなんですか?」


「あ、はい」


私は、柵の向こうを見た。


「……好きになったのは、今日かもしれませんけど」


「ああ、そうなんですね」


彼は楽しそうに笑った。


「僕は結構好きなんですよ。カピバラ」


「そうなんですか?」


「はい。ここの子も、たまに見に来るんです」


カピバラは相変わらず、目を閉じていた。


「……名前、何ていうんですか?」


ふと思いついて聞いた。

彼は、柵の向こうを見た。


「どんたっていいます」


「……どんた?」


「はい」


「……どん太さん?」


なんだか、変わった名前だ。

私は隣の男の人を見た。

三十歳くらいだと思っていたけれど、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。


どん太。


ずいぶん思い切った名前だな。


「……珍しいお名前ですね」


彼は一瞬、きょとんとした。

それから私の顔を見て、ふっと笑った。


「あ、いや。カピバラの名前です」


「…………」


私は、もう一度柵の向こうを見た。


「……あっ」


彼が笑った。


「すみません。僕の言い方が悪かったですね」


「いや、私が勝手に!」


私は慌てて首を振った。


「そうですよね。カピバラの話してましたもんね」


「はい」


「どん太さんって、すごく似合うお名前だなと思って」


「僕にですか?」


「……はい」


彼は少し驚いたあと、声を出して笑った。

私は、なんだか恥ずかしくなった。


でも、その笑い方を見て、少しだけ目が離せなくなった。

眼鏡の奥で、目が細くなる。

笑うと頬がゆるんで、目尻に小さなしわが寄る。

それまで穏やかだった顔が、くしゃっと崩れるように笑う。

無理に声を抑えたり、上品に笑おうとしたりしない。

ただ、面白かったから笑っている。

その顔を見ていると、こちらまで笑いたくなった。

……あ。

この人、笑うとこんな顔になるんだ。


彼は改めてこちらを向いた。


「三浦といいます」


「三浦さん」


「はい。どん太ではなく」


私は、また笑ってしまった。


「覚えました」


「よかったです」


彼は柵にもたれたりせず、少し離れたところに立っていた。

時々、眼鏡の位置を直す。

袖をまくった腕が、照明に照らされていた。

細い縞の入ったシャツは少し皺になっていて、仕事帰りにそのまま来たのだろうと思った。


「あの」


私は、手に持っていたハンカチを見た。


「これ、洗って返したいんですけど」


三浦さんは、私の手元を見た。


「ああ、全然。このまま返してくれたらいいですよ」


「いや、それはさすがに」


「大丈夫ですよ。洗いますし」


「でも、飲み物がついちゃったので」


「気にしなくていいですよ」


私は少し考えた。

それから、思い切って言った。


「……じゃあ、連絡先を聞いてもいいですか?」


三浦さんが、こちらを見た。


「連絡先ですか?」


「はい。ちゃんと洗って返したくて」


「ああ……じゃあ、お言葉に甘えますね」


三浦さんは、鞄からスマートフォンを取り出した。


「ありがとうございます」


私もスマートフォンを開いて、連絡先を交換した。

画面に「三浦」という名前が表示される。


「じゃあ、洗ったら連絡しますね」


「はい。お願いします」


私はハンカチを丁寧に畳んだ。


閉園時間を知らせる放送が流れた。

私たちは、出口に向かって歩いた。


「今日はありがとうございました」


私が言うと、三浦さんは首を振った。


「いえいえ。こちらこそ」


「ハンカチ、本当に助かりました」


「よかったです」


出口の明かりが見えてきた。


「じゃあ、また連絡しますね」


「はい。お気をつけて」


三浦さんは、軽く手を振った。

私も手を振り返した。

少し歩いてから、振り返った。

三浦さんは、もう反対方向に歩き始めていた。

縞模様のシャツの背中が、人混みに紛れていく。


動物園来てよかったと思った。

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