第8話 看板がなくても、作れるもの
引き渡しの日、厨房は驚くほど広く見えた。
私物の泡立て器、母の帳面、ニナの小さな花瓶。それらがなくなるだけで、別の店だった。
ガスパールは備品表を確かめ、私から鍵を受け取った。
「搬出に異議はありません。レシピの権利については、確認を続けます」
「承知しました」
セドリックは来なかった。
私は最後に、作業台へ手を置いた。
母と同じ高さまで背が伸びた日、この台で初めてひとりで生地を捏ねた。
そこを離れて、扉を閉める。
振り返るのは、通りを渡ってからにした。
向かいでは、エダ夫人が掃除をしていた。
「借りる人が決まったからね。昔の釘を片づけておいたわ」
借用書には、今朝書いた私の署名がある。
融資の契約も結んだ。修繕の職人は明日来る。
まだ粉の袋すらないが、ここは私が選んだ場所だった。
壁を拭いていたテオが、布屋の忘れ物を見つけた。糸巻きが一つ、棚の隙間に落ちていたのだ。
エダ夫人はそれを受け取り、前の店主へ渡すと言った。
「閉じた時には、もう年だったからね。忘れ物も多いの」
ここにも、別の店の終わりがあった。私には新しい場所でも、誰かには毎日帰ってきた場所だ。
私は床に残った棚の傷を、全部隠す必要はないと思った。見せる菓子の邪魔にならないなら、そのままでいい。私たちも、いずれここに新しい傷をつけるだろう。
ポールが裏口から水桶を運び、床をもう一度拭いた。
「店名、どうします?」
ニナが板と筆を持ってくる。
誰も書かずに、私を待った。
母の名を入れるか。
旧店と似た名前にするか。
口に出しかけて、やめた。
「リュミエールにしたい」
灯り、という意味の古い言葉だった。
母は夜明け前の厨房で、いつも小さな灯りをつけた。私はその下で、宿題をしたり、居眠りをしたりした。
「立派すぎません?」とテオ。
「灯りは、小さくても灯りよ」
彼は頷き、板を押さえた。
ニナが筆を走らせる。
『菓子店リュミエール』
最後の文字だけ少し傾いた。ニナは直そうとしたが、エダ夫人が手を止めた。
「いいじゃない。人が書いたと分かるわ」
その夜、二階へ荷物を運んだ。
小さな机にレシピ帳を置き、青いリボンを挟む。
下からテオの声がした。
「店長! 煙道、奥で詰まっているそうです!」
階段を下りると、修繕職人が眉を寄せていた。様子を見に来ただけのつもりが、問題を見つけたらしい。
「予定の場所にオーブンを置くなら、壁を開けないといけません。二日は必要です」
開店まで、あと二日。
私は窓の移転案内を見た。
三日後、待っています。
約束はもう、お客様の財布の中にあった。




