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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第7話 最後のお客さま

旧店で焼く最後の朝、私はいつもより早く起きた。

 実家には戻らず、マルタの家の客間を借りていた。彼女の飼い猫は私の鞄を寝床にして、動く気配がなかった。


「急いでも、日が昇るのは同じだよ」


 マルタに言われ、朝食を食べた。

 店ではニナが移転案内を準備していた。新しい店名の欄だけ、まだ空いている。


『三日後、向かいの緑の扉でお待ちしています』


 開店すると、常連が途切れなかった。

 昨日説明した人が、友人を連れてきた。知らずに来た人には、ニナが一人ずつ案内を渡した。


「ベルナールは、なくなるの?」

「看板は残ります。でも、私たちは向かいへ移ります」


 何度も、同じ説明をした。

 店名と人が離れるなんて、私も昨日まで想像していなかった。


 案内を受け取らない客もいた。向かいの店が近いなら、開店後に確かめればいいという人だ。

 ニナは、押しつけずに紙を戻した。


「皆に来てもらいたくなるわね」


 私が小さく言うと、彼女は頷いた。


「でも、今日買いに来てくださったことは、今日のこととして嬉しくていいと思います」


 私は目の前の箱へ、予約の名前を添えた。次の来店の約束がなくても、今日の菓子を楽しみにしている人はいる。その気持ちまで、不安で見えなくしてはいけなかった。


 昼過ぎ、靴職人のアルノーさんが来た。

 母の代から毎週、蜂蜜ケーキを二つ買う人だ。


「今日は四つ」

「お客様がいらっしゃるのですか」

「いや。最後だから、二つは明日の分だ」


 包みを渡すと、彼は窓の外を見た。


「次はあっちへ行けばいいんだな」

「ええ。まだ狭くて、品数も少ないと思います」

「俺の靴も、最初は三種類だったよ」


 彼は案内を畳み、財布へしまった。

 その仕草を見て、鼻の奥がつんとした。


 夕方、セドリックが来た。


「顧客を持ち出すのは、問題だぞ」


 私は陳列台の空いた場所を拭いた。


「お客様は、持ち物ではありません」

「住所の帳面だよ」

「店舗の配達記録は引き渡す書類に入れました。新店の予約は、皆様に改めて申し込んでいただいています」


 ニナが新しい予約帳を示す。

 旧店の記録から名前を写したのではない。今日、本人が書いてくれたものだった。


 セドリックは、空になった棚を見た。


「今日は、よく売れたな」

「はい」

「最後だから、皆が気を遣ったんだろう」


 答えなかった。

 その人たちの気持ちを、彼に説明する必要はもうなかった。


 閉店の札を返した後、鈴が鳴った。

 小さな男の子が、硬貨を握っていた。


「まだ、ある?」


 売り物はなかった。

 私は従業員用に残した、少し形の崩れた焼き菓子を見せた。


「これなら。形が悪いから、少し安くするね」

「お母さんに買いたかったんだ」


 少年は包みを胸に抱え、向かいの扉を見た。


「今度は、あっち?」

「そう。緑の扉よ」


 彼が帰ってから、私は店の鍵を外した。

 鍵輪には、母がつけた青いリボンが残っている。

 リボンだけを解いて、ポケットへ入れた。

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