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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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50/50

第50話 向かいに開いた、私たちの店

 数か月後、緑の扉を塗り直した。

 開店した時より、取っ手の周りが擦れていた。

 それだけ多くの手が、ここを開けたのだと思うと、古い塗料を削るのも惜しかった。


 新人のミラは、ひとりで材料を量れるようになった。

 テオは手順を説明する時、マルタと同じ言い方をしてから、照れた。

 ニナの予約帳は二冊目になり、ポールの配達には曜日ごとの常連ができた。

 彼の子供の絵は、本人たちの承諾を得て、売り場の壁に飾っている。


 二号店は、まだない。

 ガスパールとは、次の候補地と人員の条件を相談している。

 向かいの店は商会名に変わり、昼に軽食を出すようになった。こちらが休みの日には、その店で茶を買うこともある。

 セドリックとの連絡は、必要な書類の時だけになった。

 父とは月に一度、茶を飲む。話が噛み合わない日もあるが、私は店へ戻る時間を自分で決めている。


 春の気配がする朝、地方への定期便が出た。

 試験便から数えて四回目。今回は、向こうの工房の焼き菓子も積んで帰ってくる。

 アドリアンは荷を確かめ、私たちの箱を別の商会員へ渡した。


「今日は、見送る側です」


 彼が言う。

 私も頷いた。

 すべての仕事に、自分がついていかなければならない時期は、少しずつ終わり始めている。


 昼、ソランジュが娘と来た。

 写真の前で立ち止まり、母の名の隣に自分の名を見つける。


「林檎の灯り、まだある?」

「はい。今日はミラも作りました」


 彼女はミラへ声をかけ、菓子を二つ買った。

 母のことを知る人と、母を知らない人が、同じ店で話している。

 その景色を、私はずっと見ていたかった。


 午後には、ミラが初めて焼き色を判断した。薄焼きの端を見て、あと少しと答える。マルタはすぐに正解を言わず、もう一枚と比べさせた。

 私はその間に、新しい配達先への説明を書いた。誰かが学んでいる間に、別の誰かが店を進める。そんな時間が、以前より増えていた。

 ミラが焼き上がった菓子を棚へ並べると、テオが一枚の傾きを直した。彼が教える側へ回った姿を、私は母にも見せたかった。

 写真の母は、若いソランジュと笑っている。私はその前の埃を払い、また厨房へ戻った。


 夕方、最後の客が来た。

 開店前に、母への菓子を買った男の子だ。

 今日は自分と妹の分だと言い、麦の小石を二つ選ぶ。


「ここ、ずっとある?」


 私はすぐに、ずっと、と約束しなかった。

 店を続けることが、どれほど多くの毎日でできているか、今は知っている。


「続けていけるように、皆で働いているわ。次に来た時も、おいしいものを用意して待っている」


 男の子は頷き、妹の手を引いて帰った。


 閉店後、全員で片づける。

 ミラが明日の仕込み量を読み、テオが確かめ、マルタが最後に頷く。

 ポールは夕食に間に合う時刻に帰った。ニナは明日の休みを確認して、花瓶の水を替えた。


 アドリアンが迎えに来たのは、帳簿を閉じた後だった。


「お疲れさまです」

「あなたも」


 私は鍵を取り、厨房を見渡した。

 オーブン、天板、作業台。買ったものも、直したものもある。

 ここにある物は、いつかまた変わるだろう。

 人も増え、菓子も変わる。

 変わるたびに、誰かに決められてしまうのではなく、皆と話し、自分で選んでいきたい。


 灯りを消す。

 外へ出ると、向かいの店の窓に、私たちの姿が映っていた。

 私はもう、あの建物の中へ帰りたいとは思わなかった。


「何を見ているのですか」


 アドリアンが尋ねる。

 私は隣の手を取った。


「私の店です」


 緑の扉の上には、少し傾いた文字がある。

 リュミエール。

 明日も、私たちが開ける店だった。


 ――完――

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