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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第5話 向かいの空き店舗

「貸す前に、悪いところを見てちょうだい」


 大家のエダ夫人は、鍵を開けるなり言った。

 中は思ったより狭かった。壁には棚の跡が残り、奥の床が少し傾いている。

 けれど窓からは、午後の光が入った。


「ここなら、菓子がきれいに見えます」


 ニナが窓辺へ手をかざす。

 ポールは裏口を開け、荷車が通れるか測った。

 テオは何もない壁を見ている。


「そこに、オーブンを置きたいの?」

「はい。でも、煙突が」


 エダ夫人が床を杖で叩いた。


「昔はパン屋だったのよ。布屋の前はね。塞いだ煙道があるから、使えるか調べてもらいましょう」


 私は二階へ上がった。

 小さな台所と、二部屋。窓の取っ手は錆びていたが、回すと風が通った。

 実家の自分の部屋より、ずっと小さい。

 それでも、ここなら、帰ってくるなと言われない。


 窓際に立つと、向かいの旧店の厨房が見えた。明日からあそこで、私たちのいない人が働く。

 ニナが、私の少し後ろへ立った。


「見えるの、嫌ですか」

「少し。でも、お客様には、迷わず来ていただけるわね」


 夫人は、通りの明るさも見ておくよう言った。冬には日が短い。夕方に帰る客が扉を見つけられるよう、外の灯りを直す必要がある。

 私は二階の眺めばかり気にしていた自分に気づき、階段の手すりと裏口の鍵も確認した。店の夢を見ることと、毎日安全に開けることは、どちらも私の仕事だった。


「保証人は?」


 階下へ戻って尋ねると、夫人は書類を出した。


「必要よ。家賃を払う人と、困った時の連絡先ははっきりさせたいわ」


 父には頼めない。セドリックにも。

 私は家賃と敷金を紙へ書き、修繕費を足した。

 家賃だけなら払える。給料も、ひと月分は確保できる。

 オーブンを入れると、足りない。


「明日まで、待っていただけますか」

「明日の夕方まで。その先は、ほかの希望者にも見せるわ」


 好意で借りられるほど、世の中は簡単ではなかった。

 でも、条件を先に言ってもらえるのは、ありがたい。


 店へ戻る途中、旧店の窓に紙が貼られているのを見つけた。


『ベルナール、新体制で営業継続。変わらぬ味を、皆様へ』


 テオが立ち止まる。


「まだ、レシピの話も終わっていないのに」

「こちらは、こちらの準備をしましょう」


 強がって言った。

 実際には、胸がざらついた。

 向かいで新しい店を開いても、客は同じ菓子屋だと思うのだろうか。母の名がついた看板に、やはり戻っていくのだろうか。


 机で見積もりを出していると、客用の鈴が鳴った。

 もう閉店したのに、と顔を上げる。

 濃紺の上着の男が帽子を取った。


「まだ、お話はできますか」


 クローヴ商会のアドリアンだった。

 小麦と乳製品の納入で、何度か顔を合わせている。いつも品物の状態を先に確かめる人だ。


「ご注文でしたら、今日は」

「今日は、菓子を買いに来たのではありません」


 彼は向かいの貸店舗を見た。


「エダ夫人から聞きました。修繕の相談を受けたのです」

「では、費用のお話を?」

「それも。ただ、その前に伺いたいことがあります」


 私は椅子を勧めた。

 彼は座る前に、四人の顔を見渡した。


「新しい店で、最初のひと月に何を売る予定ですか」


 可哀想ですね、とは言わなかった。

 私は机の見積もりを裏返し、白い面に鉛筆を置いた。


「説明させてください」


 それは、その日初めて、私の答えを待ってくれる質問だった。


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