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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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42/50

第42話 看板を返すと言われても

 数日後、ガスパールから提案が届いた。

 旧店は商会名に変更する予定で、ベルナールの店名を使う契約を解消できるという。


「お望みなら、別途手続きを」


 私は、向かいの古い看板を見た。

 母が選んだ文字。小さい頃には、あの名が世界の中心だった。

 返ってくるなら、嬉しいはずだった。


 けれど、こちらの窓にはリュミエールとある。

 ニナが書き、テオが押さえ、五人で掲げた板だ。


 閉店後、皆へ相談した。

 マルタは、どちらでも母を忘れることにはならないと言った。

 ニナは、客が新しい名を覚え始めていると教えた。

 ポールは配送先への説明が必要になることを挙げる。


 私は一晩考え、翌朝返事をした。


「店名は、リュミエールのままにします」


 私は店名を考えた時の紙を、もう一度出した。ニナが書き損じた文字と、テオの案が残っている。

 新しい名は、母を追い出すためにつけたものではなかった。私たちが次へ進む場所を、呼べるようにしたかったのだ。

 その紙を見せると、マルタは、あの時のあなたはまだ泣きそうな顔だったと笑った。

 私は紙を畳み、店の記録へ入れた。由来を忘れないように。母の歴史だけでなく、この店が始まった日も、誰かが後から知れる形で残したかった。


 母の名前は、蜂蜜ケーキの商品説明へ残す。

 ソランジュと二人で始めたことも、小さな案内に記す。

 店名の使用契約の終了は確認しても、古い看板をこちらへ掛け替える必要はなかった。


 ニナが母とソランジュの写真を飾った。

 その隣に、祭りで撮ってもらった五人の写真。


 母は、新しい店の中心から少し横へ移った。

 遠ざかったのではなく、席が増えたのだと思った。


 ガスパールが引き取った古い看板は、後日こちらへ届いた。

 エダ夫人の許可を得て、階段の壁へ掛ける。

 毎日、二階へ上がる時に見える場所だった。


 その夜、灯りを消す前に二つの看板を眺めた。

 なくしたものは、全部元の形に戻るわけではない。

 それでも、持っていけるものはあった。

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