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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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41/50

第41話 契約書には、署名がありません

 商会の確認会は、客の入らない会議室で行われた。

 私は晒し者にする場を望まなかったし、ガスパールも取引資料を広場へ持ち出す気はなかった。

 記録係が座り、セドリックと父が向かいへ座る。


 文書士が、譲渡の承諾書の提示を求めた。

 セドリックは売買契約書を出した。


「それは建物等の売買契約です。こちらが求めているのは、レシピ使用権の譲渡承諾です」


 彼は、母の帳面を示そうとした。

 その写しに、私の承諾の署名はなかった。

 ソランジュの署名もなかった。


「婚約中で、実質的には」

「婚約中であることを、承諾取得済みと書いたのですか」


 商会の審査担当が尋ねる。

 セドリックは口を閉じた。


 父は、建物の売却に同意したことを認めた。

 レシピの権利まで私に確認していなかったことも。

 私は、返事を求められた部分だけ答えた。

 母の店でどれほど働いてきたかを、長く訴える必要はなかった。


 商会は虚偽説明を認定し、セドリックの顧問契約を解除した。

 損害の精算は、当事者間で改めて行う。

 私に売却代金の返還義務を負わせる話ではないと、記録に残った。


 審査担当は、セドリックへ反証を出す期限を告げた。彼がその場で話した言葉も記録に残す。

 私は早く帰りたかったが、確認の手順が省かれることは望まなかった。急いで結論だけ出せば、後から、聞いてもらえなかったという争いが残る。

 父は、私の持参した資料をもう一度見た。そこには、彼の署名した清算書の写しもある。

 私ひとりの言い分を信じるかどうかではなく、それぞれが残した記録を比べる席になっていた。そのことに、私は少しだけ息をつけた。


 最後に、訂正文の公開範囲を確認した。

 誤った案内を送った取引先と、旧店の窓。

 訂正文は相手の人格ではなく、権利の説明を修正するものになった。


 会館を出ると、セドリックが私を呼んだ。


「これで満足か」


 私は立ち止まった。


「私が同意したと、勝手に言われなくなるなら、必要なことでした」


 それ以上は答えなかった。

 彼の感情まで収めてから帰る義務は、もうない。


 店へ戻ると、テオがオーブンを開けた。

 林檎の灯りが、揃った色に焼けていた。


「お帰りなさい」


 私は鞄を置き、手を洗った。

 話し合いで勝つためではなく、ここへ戻るために、今日まで進めてきたのだ。

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