第38話 お父さま、私は戻りません
久しぶりの実家は、玄関の花まで以前と同じだった。
私がいない間も、この家の生活は続いていた。
父は書斎で待っていた。
「貼り紙をしたのは、私だ」
私が座る前に、父は言った。
「共同経営の話を、いつまでも帳面に残す必要はないと思った」
「母の約束も、隠したのですね」
「所有の話が複雑になる。お前には、店を守ってもらうつもりだった」
私は椅子に座った。
立ったままでは、声が強くなりすぎそうだった。
「守るために必要なことを、私は知らされませんでした」
父は机へ手を置いた。
「セドリックの説明には、不備があった。私も、任せすぎた」
不備。
私の生活が変わった出来事が、その一言に収まるのは苦しかった。
けれど、父の謝罪を大きく言い直させるために来たわけではない。
「母の名を使う権利も、私の承諾も、今後は私へ確認してください。建物を売る時も、働いている私へ先に話してほしかった」
父はしばらく黙り、頷いた。
「戻ってくれば、セドリックとの婚約も含めて、改めて」
「戻りません」
私は遮った。
言い方がきつかったかもしれない。それでも、曖昧にしてはいけない部分だった。
「私は今、自分で借りた家に住んで、自分の店を経営しています。父に会うために戻ることはあります。でも、以前の暮らしには戻りません」
父は私を見た。
「お前は変わったな」
「知らなかったことが、増えたのです」
父は、店を経営する娘を人前でどう紹介したらよいか分からなかったと言った。
私はすぐに返事をしなかった。悪意だけではなかったと知っても、されたことの痛みはなくならない。
「今後は、私が菓子店を経営していると、そのまま話してください」
父は言い慣れない言葉のように、菓子店、と繰り返した。
今日一度の会話で、親子がすべて分かり合えるとは思わなかった。それでも、次に会う時の話し方は、ひとつ変えられる。私はその返事を受け取り、席を立った。
帰り際、父は母の小さな写真を渡した。
若い母と、若いソランジュ。二人の間に、最初の店の看板がある。
私は受け取った。
許したからではない。母の写真を、持っていたかったからだ。
家を出ると、足が少し震えた。
それでも、自分の帰る方向は分かった。
緑の扉へ向かって、歩き始めた。




