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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第37話 誰かを縛るためのレシピではない

 約束の紙には、難しい言葉は少なかった。

 共同で作った配合は、二人とも使える。

 互いの店名を、許可なく使用しない。

 外へ権利を売る時は、双方に相談する。

 各々の子へ、使う権利を受け継がせることも書かれていた。


「私が使うことは、許されていたのですね」

「ええ。あなたが菓子を作るなら、エリーズは喜ぶと言っていた」


 ソランジュは、私の手を見た。

 火傷の跡と、爪の端に入り込んだ粉。


「でも、働くしかないと思って使うのは、違うわよ」


 私は顔を上げた。


「あなたが別のことを選んでも、お母さんは、同じくらい喜んだと思う」


 胸の奥が痛んだ。

 母の店を守ることが、母への愛を証明する唯一の方法だと思っていた。

 違う道を選ばなかったから、私は良い娘なのだと。


「今は、自分の店を続けたいです」


 そう言うと、ソランジュは笑った。


「なら、続けなさい。私の名を全部の商品へつけなくてもいい。でも、昔の話をする時には、私もいたと教えて」


 私は頷いた。

 私は、約束の紙を持っていたら使い方を知っていたはずなのに、と言った。ソランジュは、知らされなかった責任まで引き取らなくてよいと答えた。


「これから知ったことを、どう使うかでしょう」


 母の友人の言葉は、私を無罪にするための判定ではなかった。今の私へ、次にできることを返してくれる。

 私は店の案内を直し、母だけで始めたという説明を改めると伝えた。過去を全部元どおりにすることはできない。でも、同じ省略を繰り返さずに話すことはできた。


 写しの作成と、説明への協力をお願いする。

 彼女は娘と相談し、文書士へ直接確認してもらうことを了承した。


 帰る前、林檎の灯りを渡した。

 ソランジュは半分食べ、もう半分を娘へ分ける。


「これは、私たちの菓子ではないわね」


 私は一瞬、身を固くした。


「あなたたちの菓子になっている」


 彼女はそう続けた。

 マルタが隣で、静かに笑っていた。


 帰りの馬車で、私は窓から畑を見た。

 守るために握りしめていた帳面は、膝の上で軽くなった。

 中身が減ったわけではない。

 私ひとりで全部を背負う必要が、なくなったのだ。


 街へ着くと、父から面会を求める便りが届いていた。

 今度の場所は、実家だった。

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