第32話 売ったもの、売れなかったもの
ガスパールの前へ、父から得た清算書を置いた。
彼は自分の売却資料と、並べて読む。
「店舗の持分を取得したという説明は、これで確認できます」
「レシピについては?」
彼がもう一枚の紙を出した。
『旧共同経営者を含む全権利者の承諾取得済み』
セドリックの署名があった。
私はその文を、指で追った。
「私は承諾していません。ソランジュ様にも確認が必要です」
ガスパールは写しを取る許可を求め、記録した。
「追加で購入した機材、開店広告、試作費用。説明が虚偽なら、当商会にも損害が出ています」
彼は額を読み上げなかった。
私へ負担を求める話ではないと、先に言った。
その区別に、私は少し安心した。
「私は、向かいの店を閉めさせたいわけではありません」
「分かりました。ですが、誤った説明は訂正します」
ガスパールは、私から今すぐ新しい使用許可を買う案もあると言った。私は、話を急がないよう頼んだ。
「ソランジュ様にも確認します。私だけで、全部を売れるかのようには話したくありません」
彼は頷き、確認の期限を尋ねた。分かり次第連絡すると答える。
セドリックのように、将来の承諾を今の承諾に置き換えたくなかった。都合のよい返事を先に出すのは簡単だ。けれど、その返事を守るために、誰かの意思を後から曲げることになる。
帰る前、旧店の厨房から、若い職人が顔を出した。
彼は私を見ると引っ込もうとしたが、ガスパールが声をかけた。
「こちらの配合を盗めと頼んだことはない。再現できるという説明で、採用したのです」
若い職人は頷いた。
母の菓子を作れないと責められていたのかもしれない。
私たちだけが困っているのではないと、初めて実感した。
店へ戻ると、ニナが客からの問い合わせを残していた。
『あなたの店が、レシピを無断で使っていると聞いた』
私は顔を上げた。
「どこで?」
「セドリック様が、知人の集まりで」
紙の上で指が冷えた。
彼は資料の確認より先に、人の口へ話を置いたのだ。
ニナが尋ねる。
「どうお返事しましょう」
私は怒りのまま書こうとして、鉛筆を置いた。
言い返す速さではなく、間違えずに答えられる形を作らなければならなかった。




