第30話 書き込みのない最後の頁
貼り紙を無理に剥がさず、翌朝マルタに見せた。
彼女は帳面を見て、椅子へ座った。
「祭りで、誰かに会った?」
「白い髪の女性。母を、エリーズと」
マルタは小さく頷いた。
「ソランジュ様だと思う」
初めて聞く名前だった。
母の昔の友人は何人か知っている。父の知人も、店の取引先も。
なのに、帳面へ字を残すほど親しい人を、私は知らない。
「なぜ、今まで」
問いかけると、マルタは先に頭を下げた。
「聞かれなかったから、では済まないね。あなたが店を守ろうとしていたから、昔のことまで背負わせたくなかった」
私は帳面を閉じた。
「私のために、私に教えない人が、ほかにもいたのね」
マルタの顔が痛そうに歪んだ。
責めすぎたかと思ったが、言葉を消すこともできなかった。
「そのとおりだよ。ごめんなさい」
彼女は言い訳を重ねなかった。
私は少し待って、帳面を開き直した。
「教えてください」
母とソランジュは、店を一緒に始めた。
母が焼き、ソランジュが配合を考え、二人で売り場にも立った。
数年後、ソランジュは街を離れた。
父は、退いた人の名を店に残す必要はないと言った。
「お母様は、帳面から消すことには反対した。名を表に出さないことで、話を収めたんだ」
私は貼り紙の下を見た。
母の字は、その紙の上にはなかった。
隠したのが母だとは、まだ言えない。
マルタは、母が昔の写真を売り場へ置こうとしていた日を思い出した。父は店の格に合わないと言ったらしい。二人が借りた厨房の前で、袖を捲って写っていた写真だった。
私は母の最初の店を知らない。立派な看板の下で、いつも上手に焼いていた人しか知らなかった。
「その写真も、見たいです」
言うと、マルタは探せる場所を考え始めた。分からないと言える彼女を、私は責めなかった。知っているのに教えないことと、今は知らないことは、違うからだ。
「ソランジュ様は、どこに?」
「今の住所は、私も正確には知らない。昔の便りなら、家にある」
私は取りに行ってほしいと頼んだ。
その前に、父にも尋ねるべきことがあった。
封筒を出して、短い手紙を書く。
『母の店の共同経営者について、お話を伺います』
返事を待つのではなく、面会の候補日を三つ添えた。
知らないままで守ることを、もう続けたくなかった。




