第3話 婚約も、本日で終わりにします
「君が金を出せば、買い戻せる」
翌朝、セドリックは開店前の店へ来た。
昨日より機嫌がよかった。解決策を持ってきた人の顔だった。
「母方の祖母から受け取った預金があるだろう。あれと、宝石を売れば」
「売却代金は、どこへ行ったの?」
「ベルナール卿と僕の事業に。今すぐには動かせない」
私は空の陳列台へ布をかけた。
母が縫った布は、角だけ何度も繕ってある。
「私のお金で、あなたたちが売ったものを買い戻すのね」
「君が一番ここを守りたいんだから、合理的だろう」
合理的。
私が朝から晩まで働くのも、給料が足りない月に自分の取り分を減らすのも、彼はその言葉で褒めた。
頑張る私が好きなのだと思っていた。
都合のいい私が好きだったのかもしれない。
「父と話すわ」
「もう話した。結婚したら資金も一緒になるんだ。今使うだけのことだよ」
彼は私の手に触れようとした。
私は一歩退いた。
「結婚はしません」
彼の手が、空中に残った。
「怒っているのは分かる。でも大事な判断を、勢いで」
「勢いで売ったのは、そちらでしょう」
私の声は震えていた。
震えを隠そうとすると、言うべき言葉まで飲み込んでしまいそうだった。
だから、そのまま続けた。
「私は昨日まで、店を続けることをあなたに相談していました。あなたは、その店がなくなると知りながら聞いていた。売ったことだけではありません。私に選ばせなかったことが、嫌なのです」
セドリックは扉を見た。外を通る人に聞かれないか、気にしていた。
「君のお父上に逆らうつもりか」
「父にも、同じことを伝えます」
「店が好きなのは、分かっているよ」
彼は柔らかい声に変えた。
「ただ、僕たちには、もっとふさわしい暮らしがある」
私は彼に連れられて行った宴を思い出した。紹介される時は、いつもベルナール卿の娘だった。菓子店を営んでいると話し始めると、彼は別の話題へ移った。
恥ずかしかったのだろうか。問いただしたい気持ちはあった。けれど、彼の説明を聞いて納得できなければ別れられない、ということにはしたくない。
「私が望む暮らしについても、聞いていただきたかったわ」
彼は口を開いたが、私はもう、自分の指を見ていた。
指輪を外すのに、少し手間取った。
厨房では邪魔になるから、いつも仕事の前に外していた。今日も同じ動作なのに、指の節がうまく通らなかった。
最後に、するりと抜けた。
小さな音を立てて、皿の上へ置く。
「婚約解消を、文書で申し入れます。今後の連絡は記録に残る形でお願いします」
「そんなふうにしたら、戻れなくなるぞ」
私は皿を彼へ押した。
「戻るために、言っているのではありません」
彼が出ていくと、壁の向こうで息を吐く音がした。
厨房からテオが顔を出す。
「すみません。出ていくタイミングがなくて」
「聞こえた?」
「はい」
私は頬に手を当てた。熱かった。
「立派な言い方なんか、できなかったわ」
「でも、全部分かりました」
テオは小皿を私の前に置いた。
形の悪い焼き菓子が二つ。
「味見してください。昨日の残り生地です」
ひとつ齧る。少し焼きすぎていて、端が苦い。
それでも、甘かった。
奥でマルタが、開店の時間だと言った。
私はもうひとつをテオへ返した。
「次は、火を少し弱くしましょう」
次。
まだ、その言葉を使える。
そう思ったところへ、父からの使いが来た。
差し出された封筒には、一行だけ書かれていた。
『店を捨てるなら、家に戻ってくる必要もない』
私は封筒を畳んだ。
今日の閉店後は、住む場所も探さなければならなかった。




