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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第2話 売買契約に、私たちの名前はありません

店を閉めると、ニナは表の札を「本日は終了」に裏返した。

 私は机に、売買契約書と雇用契約書を並べる。

 母のレシピ帳は、膝の上に置いたままにした。


「ベルナールの名称、店舗建物、備え付け設備。ここまでは分かります」


 ガスパールは椅子に腰掛け、私が指す箇所へ目を落とした。


「この『付属資料』とは何ですか」

「営業に必要な資料です」

「一覧は?」


 彼の指が止まった。

 契約書には、後日引き渡す、としか書いていない。


「厨房の点検記録と、設備の取扱書なら、お渡しできます」

「レシピは?」

「私個人の財産です。母の遺産分配書に記載があります」


 私は封筒から写しを出した。

 長年、父に任せていた書類だった。午前中、ポールに頼んで自宅の箱を取ってきてもらった。箱の底に、母の葬儀の時の白い手袋も入っていた。


 ガスパールは文面を読み、セドリックを見た。


「説明が違いますね」

「結婚すれば、こちらのものになるんです。同じことでしょう」

「まだ結婚していません」


 彼が返すと、セドリックは口を閉じた。


「従業員についても、売買契約に移籍の合意はありません。新しい条件で雇うなら、一人ずつ承諾を取ってください」


 私が言うと、ガスパールは退職届を元の場所へ戻した。


「契約上の確認をします。資料については、確認が済むまで処分なさらないでください」

「元から、処分するつもりはありません」


 怒鳴る人ではなかった。それがかえって怖かった。

 彼は買ったものを確かめている。私に同情するために、ここへ来たわけではない。


「ですが、建物と設備の引き渡しは予定どおりです。三日後の午後五時までに、私物を搬出してください」


 私は頷いた。

 厨房の大きなオーブンも、作業台も、ここに残る。

 レシピ帳を抱いて出ていくだけでは、菓子は焼けない。


 ガスパールは設備の一覧に、古い秤の名を書き加えた。


「それは私物です」


 私は底に刻まれた母の頭文字を見せた。小さな秤は、母が自宅で使っていたものを持ち込んだ。

 彼は確認し、一覧から線を引いて消した。

 奪う人と守る人というだけなら、話は簡単だった。だが、購入した物を確かめるのは彼の仕事でもある。私が曖昧なまま使っていた物まで、自分のものと言うことはできない。

 秤は持ち出し、棚は残す。ひとつずつ分けると、厨房で過ごした六年が、売れる物と売れない物へ分かれていくようだった。


 二人が帰った後、テオがオーブンを撫でた。


「持っていけないんですね」

「ええ。天板も、店の備品で買ったものは残すわ」

「なら、持っていけるのは」


 マルタが彼の手を取った。


「それよ」


 テオは自分の指を見た。

 火傷の跡が二つ。昨日できた、小さな切り傷がひとつ。


「この手で覚えたことまでは、売れないでしょう」


 私は膝の上の帳面を開いた。

 最初の頁には、母の丸い字でこう書いてある。


『作った人が、もう一度作りたくなる菓子に』


 子供の頃には、変な言葉だと思った。

 お客様がまた食べたいと思う菓子、と書けばいいのに。

 今なら、少し分かる。


 ニナが売り上げの袋を置く。


「今日の分です。明日の材料を引くと、これだけ残ります」


 私は硬貨を数えた。

 四人の最後の給料を払えば、ほとんど消える。


 ポールが言った。


「まず、いくら必要なのか出しましょう。気合いでは家賃を払えませんから」


 私は新しい紙を引き寄せた。

 上に『再出発に必要なもの』と書く。

 真っ先に書くべきは、店か、道具か。

 迷っていると、マルタが横から鉛筆を差し出した。


「先に、人の生活です」


 私は一行目に、給料、と書いた。

 守るものの順番を、今度は間違えたくなかった。


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