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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第1話 店を売ったのは、私の婚約者でした

「この店、売ったから」


 婚約者がそう言った時、私はまだ、焼きたての林檎パイを切っていた。

 刃先から、薄い湯気が立つ。最後の一切れだけ、いつもより小さくなった。


「……何を?」

「建物と営業権だよ。いつまで君一人に苦労させるわけにもいかないだろう」


 セドリックは、私ではなく、窓に映る自分の襟元を見ていた。

 隣には灰色の上着の男がいる。靴に泥のない人だった。早朝の市場を歩いてきた職人たちとは、違う。


「ローデン商会のガスパールと申します。引き渡し前に設備を確認したく、伺いました」


 セドリックは林檎パイの皿を見て、ひと切れ取った。


「相変わらず、朝からよく働くな」


 口へ運ぶ前に、私は皿を引いた。


「これは、予約のお客様のものです」

「一つくらい、いいだろう」


 よくない。材料を買い、前夜に生地を休ませ、朝に焼いた。代金を払って待っている人がいる。

 いつもなら、別の一切れを用意していた。今日は、その小さな譲歩さえできなかった。

 彼は肩をすくめ、皿から手を離す。奥でマルタの洗う音が止まった。私はパイの数を数え直し、それから名刺へ目を落とした。


 差し出された名刺を、粉のついた手で受け取った。

 母の店を売った。

 その言葉が、ようやく胸に落ちた。


「私は聞いていません」

「ベルナール卿には説明した。所有者の同意もある」


 ガスパールが契約書を開く。

 父の署名。その下に、代理人としてセドリックの名前。

 私は署名欄を二度見た。何度見ても、そこに私の名前はなかった。


 母が亡くなったのは、私が十七の時だ。父は、建物の名義を移すには手続きが必要だと言った。私は菓子を焼き、給料を払い、毎年同じ説明を聞いてきた。

 その間に、手続きは違う方向へ進んでいたらしい。


「従業員には、明日から新しい制服を用意します」


 ガスパールの言葉に、奥で天板を洗っていたマルタが手を止めた。


「明日から?」

「雇用条件は改めてお伝えします。配合表も本日中に提出を」

「母のレシピまで、売ったのですか」


 声が思ったより低く出た。

 セドリックは肩をすくめた。


「同じ菓子を売るんだ。当然だろう。君は心配しなくていい。結婚したら店に立つ必要もなくなる」


 私は、彼との結婚後もここで働くつもりだった。

 何度もそう言った。そのたびに彼は笑って、好きにすればいいと言った。

 許していたのではなく、聞いていなかったのだ。


 奥から、テオが出てきた。まだ十九歳の彼は、両手で紙を持っている。

 その後ろに、接客のニナと、配達帰りのポール。

 マルタが四枚の紙を売り場の机へ並べた。


「雇用条件の話は結構です」

「どういう意味です?」

「私たちは、リゼット様に雇われています。店がこちらのものになるなら、こちらでは働きません」


 退職届だった。

 宛先には、私の名前がある。


「待って、マルタ。私は、次の店なんて」

「存じています。ですから、まずは辞めます。その先の相談は、別にいたしましょう」


 ガスパールが紙を一枚持ち上げた。


「全員ですか」

「全員です」


 セドリックが笑った。人をなだめる時の、あの笑い方だ。


「感情的になるなよ。働き口をなくして困るのは君たちだぞ」


 ポールが帽子を脱いだ。


「困りますね。家に子供が二人いますから」

「なら」

「だから、給料を払う人が変わる話を、勝手に決めてほしくないんです」


 いつも朗らかな彼が、少しも笑っていなかった。

 ニナが最後の林檎パイを皿に移す。欠けた端を私の方へ向けて、そっと置いた。


「店長。今日はまだ、私たちの店ですよね」


 私は契約書の引き渡し日を見た。

 三日後。

 それまでは、私たちが焼いて、私たちが売る。


「ええ。まだ、そうよ」

「では、お客様を待たせてはいけません」


 扉の向こうで、朝いちばんの常連がこちらを覗いていた。

 私はエプロンの紐を結び直した。


「詳しいお話は、営業が終わってからお願いします」

「リゼット」

「買い取りになったのは店でしょう。私の返事まで、買えたつもりでいらっしゃるの?」


 セドリックの笑顔が消えた。

 代わりにガスパールが、初めて私の顔を正面から見た。


 私は扉を開ける。

 バターの香りが、朝の通りへ流れ出した。

 この香りまで、あの契約書に閉じ込められるものなら、やってみればいい。


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