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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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第28話 行列の先にいた人

 最初に買ったのは、抱いた子供が林檎を指さした父親だった。

 次は隣の屋台の手伝い。

 その人が仲間へ持っていくと、少しずつ客が増えた。


 私は試食を切り、ニナが注文を聞いた。

 テオは包みを渡すたび、客の顔を見ている。

 マルタに呼ばれるまで、釣り銭を受け取るのを忘れた。


 昼過ぎ、列が売り台の横へ伸びた。

 私は残数を数え、札へ書く。

 売り切れそうだからと、急いで追加を作ることはしなかった。


 昼の列が長くなった時、ニナが注文を止めた。残りの数を、先に確かめるためだった。

 待っていた客には、お待たせする時間を説明する。急ぐ人は離れ、待てる人は残った。

 列を長く見せるために、黙って待たせることはしなかった。

 私は厨房で約束したことを思い出した。人気が出たように見える時ほど、目の前の一人を雑にしない。テオも釣り銭を確認してから、包みを渡すようになった。


 列の最後に、杖を持った女性がいた。

 髪は白く、手には古い布袋。

 試食を口にすると、彼女は目を閉じた。


「蜂蜜の香りは、残したのね」


 私は手を止めた。


「母のケーキをご存じですか」

「あなたが、娘さん?」


 頷くと、女性は私の目元を見た。


「エリーズに似ている。でも、焼き方は違う」


 母の名を、懐かしむ声だった。

 私はもっと聞きたかったが、後ろで客が菓子を待っている。


「あとで、お話できますか」


 女性は店の案内を受け取った。


「今日は迎えが来るから。店へ伺えるか、考えるわ」


 布袋から硬貨を出す。

 私は代金をいただき、二つ包んだ。

 去り際、彼女が言った。


「帳面は、大事にしている?」

「はい」

「最後の頁を、よく見て。エリーズは、捨てていないはずだから」


 その声に振り返った時、ニナが私を呼んだ。

 釣り銭が少なくなっている。

 次の客へ返す硬貨を、ポールが用意してくれた。


 再び列を見た時には、女性の姿はなかった。

 私は店の案内の残りを数える。

 あの人は、母のどこまでを知っているのだろう。


 最後の菓子が売れた。

 テオが、空の木箱を掲げる。

 私はその笑顔に頷きながら、母の帳面を思い浮かべていた。

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