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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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25/50

第25話 母の味を、変えてもいいですか

 マルタは、レシピ帳の古い頁を開いた。

 蜂蜜ケーキの横に、細い字が重なっている。


『今年の蜂蜜は香りが強い。少し減らす』

『子供には大きい。切り分けを試す』


「お母様の味は、毎年同じではなかったよ」


 私は書き込みを追った。

 母の字だと思っていた線の下に、別の人の字もある。今はそれより、量が何度も変わっていることが驚きだった。


「私は、正確に守らなければと思っていた」

「守ってくれたね。おかげで、皆が覚えていた。今度は、その先を作ればいい」


 試作を再開した。

 テオは生地の厚さを揃え、私は林檎を煮る。マルタが焼き色を見る。

 甘い香りの奥に、わずかな酸味が残った。


 ニナが食べて、笑った。


「歩きながらでも、手が汚れません」


 ポールは冷めたものを食べる。


「配達にも、使えそうです」


 名前は『林檎の灯り』に決まった。

 母の蜂蜜ケーキから始まり、テオの発想で形を変え、皆で仕上げた菓子。

 私だけの新作とは言えなかった。


 配合を直すたび、古い数字へ線を引いて残した。テオは最初の失敗を消そうとしたが、マルタが止める。


「後で同じ案を思いつくからね。試したことが分かるように」


 紙は、きれいではなくなった。私の字とテオの字が重なり、マルタの短い注意が余白へ入る。

 母の帳面も、こうして出来たのかもしれない。完成品だけを見ていた私は、そこへ至る相談を知らなかった。

 私はその紙を整えすぎずに残した。誰がどこで迷ったかまで、次の人に渡せるように。


 材料費と製造時間を計算する。

 祭りでは、売る量を決めて持っていく。足りなくても、慌てて品質を落とさない。

 テオが出来上がった配合表に、三人の名を書いた。


「誰のものか、忘れないように」


 私はその紙を、母の帳面の後ろへ挟んだ。

 新しい頁を貼るのは、まだ少し照れくさかった。


 夜、アドリアンが搬送の相談に来る。

 試食を渡すと、彼は酸味のある部分を気に入った。


「祭りで、あなた方が売っているところも見たいですね」

「仕事で?」


 尋ねると、彼は一拍だけ黙った。


「それもありますが、休みを取って行こうと思っています」


 私は返事の前に、菓子の皿を見た。

 照れた顔を、見られたくなかった。


「では、座る場所を空けておきます」

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