第12話 お詫びより先に、一口どうぞ
翌朝、棚に短い案内を置いた。
『私たちは向かいから移転しました。現在のベルナールとは、別の店です』
その横に、試食の皿。
ニナは誰にでも押しつけず、立ち止まった人へ声をかけた。
「蜂蜜ケーキ、よろしければ」
ひと口食べた人の顔を、私は奥から見てしまう。
皿を置いて去る人もいた。甘いものを食べない人もいる。
全員に頷いてもらいたくなる自分を、何度も止めた。
昼前、昨日の女性が戻ってきた。
「向こうで返金してもらったわ。こちらにも確かめに来たの」
私は試食を勧めた。
女性は口に入れ、しばらく黙った。
「これ。娘が好きなのは、これなのよ」
胸の奥で、強く張っていた糸が少し緩んだ。
「おいくつ包みましょう」
「六つ。来週も、同じ曜日に受け取れる?」
ニナが予約帳を開いた。
女性が名前を書き、希望の時刻を伝える。
私たちは彼女を顧客の帳面から連れてきたわけではない。彼女が選んで、ここに名前を残した。
試食を食べた若い客が、首を傾げた。
「好きだけど、今日は買えません。荷物が多くて」
私は店の案内を渡す。彼女は少し申し訳なさそうに受け取った。
「食べただけでも、いいんですか」
「もちろんです。お味を知っていただくためのものですから」
言ってから、自分にも言い聞かせた。ひと口渡したからといって、代金を期待してはいけない。試して、選ばない自由もある。
彼女は扉を出る前に、次は姉を連れてくると言った。それが実現するかどうかは分からない。それでも、気持ちよく帰ってもらえたことは確かだった。
閉店前には、予約が四件入っていた。
私は厨房で、明日の生地を増やそうとした。
「店長。今日の残りを見てから」
マルタに止められる。
蜂蜜ケーキは売れたが、林檎パイは三切れ残っていた。
試食に使った分もある。
「嬉しいと、全部売れる気がしてくるんですね」
「そういう日が、いちばん危ないよ」
私は生地の量を戻した。
ニナが予約帳を持ってくる。
「四件、明日と来週に分かれています。今夜作るのは、この分です」
新しい店で覚えることは、まだ多い。
けれど今日、味を知っている人が戻ってきた。
その事実を、明日の仕込みの中へ、少しずつ混ぜればいい。
帳簿を閉じようとすると、ポールが赤い鉛筆を差し出した。
「それと、試食の材料代も書きましょう。忘れると、売れた分だけ見て喜んでしまいます」
私は鉛筆を受け取った。
今日の喜びには、まだ、計算していない値段があった。




