↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/50

第12話 お詫びより先に、一口どうぞ

 翌朝、棚に短い案内を置いた。


『私たちは向かいから移転しました。現在のベルナールとは、別の店です』


 その横に、試食の皿。

 ニナは誰にでも押しつけず、立ち止まった人へ声をかけた。


「蜂蜜ケーキ、よろしければ」


 ひと口食べた人の顔を、私は奥から見てしまう。

 皿を置いて去る人もいた。甘いものを食べない人もいる。

 全員に頷いてもらいたくなる自分を、何度も止めた。


 昼前、昨日の女性が戻ってきた。


「向こうで返金してもらったわ。こちらにも確かめに来たの」


 私は試食を勧めた。

 女性は口に入れ、しばらく黙った。


「これ。娘が好きなのは、これなのよ」


 胸の奥で、強く張っていた糸が少し緩んだ。


「おいくつ包みましょう」

「六つ。来週も、同じ曜日に受け取れる?」


 ニナが予約帳を開いた。

 女性が名前を書き、希望の時刻を伝える。

 私たちは彼女を顧客の帳面から連れてきたわけではない。彼女が選んで、ここに名前を残した。


 試食を食べた若い客が、首を傾げた。


「好きだけど、今日は買えません。荷物が多くて」


 私は店の案内を渡す。彼女は少し申し訳なさそうに受け取った。


「食べただけでも、いいんですか」

「もちろんです。お味を知っていただくためのものですから」


 言ってから、自分にも言い聞かせた。ひと口渡したからといって、代金を期待してはいけない。試して、選ばない自由もある。

 彼女は扉を出る前に、次は姉を連れてくると言った。それが実現するかどうかは分からない。それでも、気持ちよく帰ってもらえたことは確かだった。


 閉店前には、予約が四件入っていた。

 私は厨房で、明日の生地を増やそうとした。


「店長。今日の残りを見てから」


 マルタに止められる。

 蜂蜜ケーキは売れたが、林檎パイは三切れ残っていた。

 試食に使った分もある。


「嬉しいと、全部売れる気がしてくるんですね」

「そういう日が、いちばん危ないよ」


 私は生地の量を戻した。

 ニナが予約帳を持ってくる。


「四件、明日と来週に分かれています。今夜作るのは、この分です」


 新しい店で覚えることは、まだ多い。

 けれど今日、味を知っている人が戻ってきた。

 その事実を、明日の仕込みの中へ、少しずつ混ぜればいい。


 帳簿を閉じようとすると、ポールが赤い鉛筆を差し出した。


「それと、試食の材料代も書きましょう。忘れると、売れた分だけ見て喜んでしまいます」


 私は鉛筆を受け取った。

 今日の喜びには、まだ、計算していない値段があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。