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婚約者に店を売られたので、従業員全員と向かいに新しい店を開きます  作者: 渋谷 爽月


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10/50

第10話 最初のお客さまは、迷子でした

九時の鐘が鳴った。

 扉を開けると、通りには旧店の呼び込みが立っていた。

 こちらの棚には、焼き菓子と林檎の瓶が少しずつ。

 私は布巾を畳み直した。


 十分。二十分。

 誰も来ない。


 ニナは花瓶の花を切り、テオは奥で次の天板を待つ。

 その時、緑の扉が細く開いた。


「ああ、いた」


 アルノーさんだった。


「向こうで買うところだったよ。新しい人に蜂蜜ケーキを頼んだら、何のことか分からない顔をされてね」

「今日は、まだ焼けなくて」


 オーブンの事情を説明すると、彼は焼き菓子を見た。


「これを二つ。家内が、硬すぎないものを探している」


 私は割った見本を渡した。

 薄くても、砕けすぎない。昨夜、マルタと厚みを決めた菓子だ。


「これなら、よさそうだ」


 代金を受け取り、包んだ。

 最初の硬貨は特別に保管したい気がした。けれど、特別な硬貨も、働いてもらわなければならない。

 私は釣り銭箱へ入れた。


 彼が帰ると、また静かになった。

 ニナが私へ、店の奥へ戻るよう小さく合図した。窓へ客が近づくたび、私が顔を上げていたからだ。


「見張られているみたいだと、入りにくいかもしれません」


 私は頬を押さえた。店が空いているのは私たちの不安で、通りの人の責任ではない。

 奥で林檎を切り、次の瓶の準備をする。鈴が鳴ると、手を洗って出た。そうして迎えた客には、待ち構えていた時より自然に挨拶できた。

 何も売れない時間にも、仕事はある。その順番を、私はまだ覚えている途中だった。


 昼前、オーブンの職人が来る。交換した部品をつけ、火を確かめた。

 今度は、左右の試験生地が同じ色に焼けた。


「使えます。ただ、明日も確認に来ます」


 マルタが頷き、蜂蜜ケーキの仕込みを始める。

 その香りが窓へ届く頃、扉が開いた。

 アルノーさんが、奥さんと隣家の婦人を連れていた。


「まだあるかい。さっきのやつ」


 婦人は林檎の瓶を見て、病床の娘に食べさせたいと言った。

 瓶の大きさと保存方法を説明すると、二つ買ってくれた。


 午後には、棚の半分が空いた。

 大勢ではない。けれど、誰が何を買ったか、全員覚えていられた。


 夕方、初日の売り上げを数える。

 足りない。予定の額には、遠かった。

 それでも、ゼロではなかった。


 テオが最初の蜂蜜ケーキを持ってくる。

 きれいに膨らんでいた。


「明日、売れますね」

「ええ」


 頷いたところへ、客の鈴が鳴る。

 見知らぬ女性が、包みを机に置いた。

 包み紙には、ベルナールの名があった。


「昨日と味が違うの。責任者を呼んでちょうだい」


 私は立ち上がった。

 開店二日目を待たずに、旧店の問題が、通りを渡ってきた。


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