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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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第9話 太陽の在処

 雪ってやつは、不思議なものでな。

 全部を白く覆い隠すくせに、消える時には、隠していた輪郭を逆にはっきり見せる。


 この話も、たぶんそういう話だ。


 誰かの娘であること。

 誰かの過去であること。

 時間の向こうに置き去りにしたはずの感情。

 そういうものが、札幌の薄い雪明かりの中で、少しずつ形を取り戻していく。


 派手な事件は起きない。

 だが、人間が変わる時ってのは案外こういう瞬間だ。

 窓を拭いている時とか、炒飯を食っている時とか、誰かがシャッターを切る音を聞いた時とかな。


 静かな話だ。

 だが静かなものほど、あとになって長く残る。

 冬の終わりの光みたいにな。

 翌朝、実結が目を覚ますと、窓の外が白かった。


 夜のうちに雪が降ったのだとわかった。三月の末だというのに、札幌はまだ雪を手放さなかった。

 商店街の屋根が、白練しろねり色に覆われていた。アスファルトの上に薄く積もった雪が、朝の光を拡散させていた。直接光ではなく、白い地面から跳ね返ってくる光。柔らかく、どこにも影のできない光。


 実結は窓枠に肘をついて、その光を見ていた。

 2030年の東京では、もう春の気配のある時期だった。でもここは違った。冬がまだ、街の芯に居座っていた。


 階下から、コーヒーを挽く音がした。

 それから、紀子さんの声がした。


「実結ちゃん、起きてる?」


     * * *


 一階の喫茶小鳥遊は、開店前の時間が一番好きだと実結は思うようになっていた。


 客が来る前の、準備だけの時間。健三さんがコーヒーを落として、紀子さんが窓を拭いて、椅子を並べて、ケーキの仕込みをする。音が整っていく時間。喫茶店が喫茶店になっていく時間。


「手伝っていいですか」と実結が聞いたのは、昨夜ではなく、今朝のことだった。

「助かるわ」と紀子さんは言って、エプロンを一枚渡した。


 窓拭きを任された。雑巾を絞って、大きなガラス窓の内側を拭く。雪の朝の窓は結露していた。拭くたびに視界が開いていく。商店街の白い景色が、段々と鮮明になっていく。


「丁寧ね」と紀子さんが後ろから言った。

「え?」

「窓の拭き方。端まで気にして拭いてる」


 実結は手を止めて、窓を見た。確かに、端の縁まで丁寧に拭いていた。自分では気づいていなかった。


「几帳面なの?」と紀子さんは聞いた。責めているのではなく、ただ興味として聞いていた。

「わからないです。家では自分の部屋しか片付けないから」

 紀子さんが笑った。「じゃあ、好きなことには丁寧なのかもね」


 好きなこと。


 実結は窓拭きを再開しながら、その言葉を反芻した。窓拭きが好きなのかどうか、わからなかった。でも、視界が開いていく過程が、気持ちよかった。曇りが取れて、外の景色がくっきりしていく過程が。


     * * *


 開店すると、常連がすぐにやって来た。


 一人目は七十代と思しき男性で、カウンターの一番奥の席がいつもの場所らしかった。健三さんと一言二言交わして、注文もせずにコーヒーが出てきた。


 二人目は近所の文房具店のご主人らしく、モーニングを頼んで新聞を広げた。


 三人目は、母親と小学生くらいの子供だった。子供がホットチョコレートを頼んで、カウンターの丸椅子の上で背筋を伸ばして座っていた。


 実結はカウンターの端に立って、紀子さんの動きを見ていた。どのタイミングで水を足して、どのタイミングで声をかけて、どのタイミングで放っておくか。紀子さんの動きには迷いがなかった。でも計算でもなかった。長年かけて体に馴染んだ感覚で、客の時間を読んでいた。


「紀子さんは、ずっとここで働いてるんですか」と実結は聞いた。

「健三さんと結婚した時から」と紀子さんは言った。「二十数年ね」

「健三さんが山から帰ってきて、開いたんですか」

「そう。山では食べていけないからって」と紀子さんは苦笑した。「でも本当は、山で怪我をして、もう登れなくなったのよ。それを素直に言えない人だから、食べていけないからって言い方をして」


 実結は健三さんを見た。

 健三さんはコーヒーを落としながら、常連の男性と話していた。穏やかな顔をしていた。山に登れなくなったことを、今は受け入れている顔。でも時間がかかったのだと、紀子さんの言い方からわかった。


「写真は」と実結は聞いた。「山に登れなくなって、やめたんですか」

「しばらくはね」と紀子さんは言った。「でも今も、たまに撮ってるみたいよ。屋上に上がってることあるから。何を撮ってるかは知らないけど」


 実結は窓の外の雪景色を見た。

 山に登れなくなっても、目だけは現役だと健三さんは言っていた。山岳写真家の目が、東札幌の商店街に降りてきて、何を見ているのか。実結には少し想像できる気がした。


     * * *


 昼前になって、沙織と美穂がやって来た。

 ドアベルが鳴って、二人が雪を踏んで入ってきた。


「寒い!」と沙織が言いながらコートを脱いだ。「したっけさ、三月の末でまだ雪とか、ありえなくない?」

「毎年のことじゃん」と美穂さんが言いながらPHSを取り出した。

「毎年のことでもありえない」


 二人はカウンターに並んで座った。実結の顔を見て、「あ、いた」と沙織が笑った。いた、という言い方が、もう当たり前のようだった。


「佳奈さんは?」と実結は聞いた。

「まだ寝てるって」と沙織は言った。「さっきPHSに掛けたら、昨日の夜遅くまで写真焼いてたって」

「昨日も?」

「あの子、のめり込むと止まらないから」と美穂がPHSを操作しながら言った。


 実結はホットコーヒーを二つ出した。紀子さんに教わった手順で。まだぎこちないが、昨日よりは少し迷いが減っていた。


「実結さん、もうお店の人じゃん」と沙織が言った。

「手伝わせてもらってるだけです」

「でも似合ってる、エプロン」


 実結は自分のエプロンを見た。紀子が渡してくれた、薄い水色のエプロン。2030年の自分がエプロンをしている姿など、想像したことがなかった。


     * * *


 午後、雪がやんだ。

 雲が薄くなって、光が変わった。


 雪を反射する光から、直接降ってくる光へ。冬の終わりの午後の光が、商店街を白く照らした。白銀しろがねと呼ぶには温度がなく、でも白練しろねりより確かな光。季節の狭間にしかない、名前のつけにくい光だった。


 健三が表に出て、空を見上げていた。

 実結も続いて外に出た。冷気が頬を刺した。雪解けの水が、軒先から落ちていた。一定のリズムで落ちる水音が、商店街に小さく響いていた。


「いい光だ」と健三さんは言った。実結に言ったのではなく、ただひとりごとのようにつぶやいた。


 実結は同じ方向を見た。

 光が商店街の屋根の雪を溶かしていた。雪の端が光を受けてきらきらと輝いて、その下から黒いアスファルトが顔を出していた。白と黒の境界が、光の中で動いていた。静止していない。刻々と変わっていく境界線。


「消えていく」と実結は言った。

「そう」と健三さんは言った。「だから撮りたくなる」


 実結はカメラを持っていなかった。だから今日はまだ一枚も撮っていなかった。カメラは客間の棚の上にあった。


 取りに行こうかと思った。

 でも、行かなかった。


 ただ、見ていた。


 消えていく光と雪の境界を、目だけで見ていた。フレームに収めずに、四角く切り取らずに、ただ目の前で起きていることとして見ていた。


 それでよかった、と思った。

 全部を撮らなくていい。見るだけの時もある。目に焼き付けるだけの時もある。


     * * *


 夕方、階段を上がる足音がした。

 二段飛ばしの、勢いのある足音だった。

 小屋の扉が開いて、寝癖のついた髪のまま、女の子が顔を出した。


 セーラー服を着ていた。でも着方が、制服というより自分のものになっていた。着慣れた人間の着方だった。首にカメラをかけていた。


 OM-4Tiだった。

 チタンカラーのボディが、午後の光を鈍く受けていた。


「実結さん、いた」


 女の子が実結を見た。

 茶色がかった瞳が、真っ直ぐに向いてきた。驚いているのに、怯えていない。好奇心の方が驚きより速く動いている目。


「はじめまして」と実結は言った。「麻倉実結です」

「小鳥遊佳奈」と女の子は言った。それから少し笑った。「昨日から来てるんだって? なんで起こしてくれなかったんだろ、沙織」

「したっけ、あんた寝てたっしょ」と沙織が後ろから突っ込んだ。

「寝てたけどさ......」と佳奈さんは言った。悪びれなかった。


 実結は佳奈さんを見ていた。

 声を、知っていた。


 2030年の、四十九歳の佳奈の声。もっと低くなって、疲れが混じって、でも芯の明るさだけは変わらない、あの声の原型がそこにあった。

 胸の奥に、じわりと、鴇色ときいろの痛みが滲んだ。


「東京から来たんだって?」と佳奈さんは言った。首にかけたOM-4Tiを、当たり前のように手で持ちながら。

「はい」

「写真、やる?」

 唐突だった。

「……少しだけ」と実結は言った。慎重に。

「どのくらい?」

「フィルムカメラなら少し、触ったことがあります」

 佳奈さんの目が、一段階大きくなった。

「え、マジで。フィルム?」

「フィルムです」

「じゃあ暗室もわかるじゃん」と佳奈さんは言った。もう話が決まったような顔で。「うちの屋上に暗室あるから、使っていいよ。明日、私も現像するし」

「あ、でも私、撮る専門だから......」と付け加えたのは、佳奈には届いていない。


 実結は佳奈を見た。

 昨夜、健三から「会うのは明日でいい」と言われていた。

 でも佳奈さんは、明日を待たずにここにいた。

「よろしくお願いします」と実結は言った。

「よろしく」と佳奈さんは言った。


 それだけだった。

 でも佳奈さんはすでに屋上の端へ向かっていた。カメラを目の高さに持ち上げて、雪解けの光の中へレンズを向けていた。


 覗いた。

 シャッターを切った。

 OM-4Tiの、確かな音が、屋上に落ちた。


 実結はその音を聞いた。

 1998年の夕暮れの光の中で、十七歳の佳奈さんがシャッターを切る音を。

 その音が、何かの始まりの音に聞こえた。

 昔のカメラは面倒だった。

 重いし、フィルム代はかかるし、失敗してもその場じゃ分からない。

 だが、その不便さの中には「見る」という行為そのものがあった気がする。


 撮る前に立ち止まる。

 光を待つ。

 風が変わるのを見る。

 雪が溶けていく境界線を、黙って眺める。


 この話で描きたかったのは、時間移動の理屈じゃない。

 「誰かと同じ景色を見る」ということだ。


 実結にとって、1998年は異世界みたいなものだ。

 だが、光は時代を選ばない。

 雪が白く反射する朝も、夕暮れの商店街も、シャッターの音も、人間の心に残る仕組みだけは変わらない。


 たぶん記憶ってのは、写真より先に、光の温度で残るんだろう。

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