第8話 喫茶小鳥遊、灯りの下で
人は、腹が減っているうちは案外まともだ。
逆に言えば、空腹を忘れた時、人間は少しだけ壊れている。
この話の連中は、だいたい壊れかけている。
時間から弾かれた少女。
説明を諦めた教師。
山の流儀だけを静かに守り続ける男。
だが、そんな連中でも、温かい飯を前にすると少しだけ人間に戻る。
コーンポタージュの缶を握る手とか、炒飯の湯気とか、そういうものが、ぎりぎりの場所で誰かを現実に繋ぎ止める。
派手な奇跡の話じゃない。
世界を救う英雄譚でもない。
ただ、暗室の赤い光の中で、行き場を失った誰かが「ここにいていい」と言われるまでの話だ。
もし今、少し疲れているなら。
この物語の灯りが、お前の帰り道をほんの少し照らせばいいと思う。
東札幌の商店街は、夕暮れの中でゆっくりと灯りを点し始めていた。
鮮魚店のプラスチック看板。米穀店の軒先に積まれた米袋。クリーニング店のガラス越しに見えるハンガーの列。どれも実結の知らない質感をしていた。2030年の商店街とは違う、手作業の匂いのする街並み。アスファルトの上に、三月の残雪が汚れた白鼠色の塊になって押しやられていた。
沙織が先頭を歩いていた。美穂がその隣でPHSを操作していた。実結は二人の少し後ろを、遅れないようついていくように歩いた。
「ここ、よく来るんですか」と実結は沙織に聞いた。
「めっちゃ来る」と沙織は言った。振り向きながら。「佳奈の家だから。幼稚園からずっと仲いいし」
「佳奈さんの、家」
実結は繰り返した。
喫茶小鳥遊が、佳奈という人物の家だということ。五味先生から聞いていた。
でも今夜泊まれる場所として聞いていたから、それ以上の意味として受け取っていなかった。
「あそこ」と沙織が指差した。
レンガ調の建物があった。
四階建て。外壁は錆朱色のレンガを模した仕上げで、年月を経て角が丸くなっていた。一階の大きなガラス窓の内側に、温かみのある光が満ちていた。琥珀色の光が、夕暮れの商店街の中でひときわ柔らかく滲んでいた。
窓に、手書きの文字があった。
≪喫茶 小鳥遊≫
筆で書いたような字体だった。達筆というより、書き慣れた人間の癖が出た字。
実結はその文字を見て、一瞬だけ足が止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。
「行こ」と沙織が実結の袖を引いた。
店舗の入口とは別の、建物脇の扉。沙織は迷いなくそこを開けた。
「お邪魔しまーす」と美穂がほぼ反射的に言った。
階段を上がった。二階、三階と上がって、四階の踊り場で沙織がノックした。
少しの間があって、扉が開いた。
* * *
大きな手が、ドアノブを握っていた。
男性だった。六十代手前くらいだと実結は思ったが、年齢の掴みにくい人だった。背が高く、肩幅が広く、でも動作のどこにも力みがなかった。チェックのネルシャツの袖を肘までまくっていて、エプロンを腰に巻いていた。コーヒーの染みが、エプロンの端についていた。
顔に、深い皺があった。山や野原を長年歩いてきた人間の皺。風と光に削られた地形のような皺。でも目は若かった。茶褐色の、静かな目。
実結を見た。
品定めでも、警戒でも、驚きでもなかった。
ただ、確かめるように、実結を見た。
「麻倉実結さんかな」と男性は言った。低く、穏やかな声だった。
「はい」
「小鳥遊健三です」
それだけだった。それ以上の説明も、質問もなかった。健三は扉を大きく開けて、中へ促した。当たり前のことのように。まるで以前から実結の訪問を知っていたかのように。
* * *
リビングは広くはなかったが、息のしやすい部屋だった。
本棚が一面を埋めていた。山岳写真集、自然科学の本、地図帳、それから写真技術の専門書。背表紙の色が、それぞれの年季を語っていた。窓際に観葉植物が二鉢あって、三月の薄い西日を受けて葉の縁が若緑色に透けていた。
テーブルの上に、湯気の立つカップが置かれていた。
実結が来ることを、本当に知っていたのだとわかった。
「座って」と健三は言って、キッチンへ消えた。
沙織と美穂は慣れた様子でソファに並んで腰を下ろした。美穂がまたPHSを取り出した。沙織が本棚から写真集を引っ張り出した。いつもの放課後の続きのように、二人はそこにいた。
実結はテーブルの前の椅子にそっと腰かけた。
カップの中身はコーヒーではなかった。薄い茶色の液体から、生姜の匂いがした。温かかった。
健三がキッチンから戻ってきて、実結の向かいに座った。コーヒーカップを両手で持って、一口飲んで、それから実結を見た。
「五味先生から聞きました」と実結は言った。「急に来てしまって、すみません」
「謝ることじゃない」と健三は言った。
「でも、事情が——」
「織江ちゃんが連絡してきた時点で、だいたいわかった」
実結は少し驚いて健三を見た。
織江ちゃん、という呼び方が耳に残った。五味先生のことを、そう呼ぶ人間がいることが、何かを物語っていた。
「五味先生のことを、ご存知なんですか」
「村瀬写真館の子だから」と健三は静かに言った。「この街は狭い」
コーヒーカップを置いて、健三は少し遠い目をした。窓の外を見るでもなく、本棚を見るでもなく、どこか遠くを見た。ネイチャーフォトグラファーが、広大な自然の中で培ってきた目の置き方をする人だと思った。
「山でな」と健三は言った。唐突に。「長いこと山を歩いてると、説明のつかないものに出会うことがある。ルートのないところに踏み跡があったり、誰もいないはずの稜線に人影があったり」
実結は黙って聞いた。
「そういう時にな、驚いたり怖がったりしてもしょうがない。まず、飯を食わせろ、ってのが山の流儀だ」
そう言って健三は立ち上がり、キッチンへ戻った。
沙織が本棚から顔を上げて、実結に小声で言った。
「健三さん、山の話になると止まんないから」
「好きなんですね」
「超好き。でも、なんか、沁みるんだよね、毎回」
美穂がPHSから顔を上げずに「沁みる」と同意した。
キッチンから、包丁の音がした。何かを切っている音。それから油の熱する音。実結は生姜湯を両手で包んで、その音を聞いていた。
* * *
しばらくして、健三が皿を持って戻ってきた。
炒飯だった。湯気の立つ、シンプルな炒飯。卵と葱と、後は塩と胡椒だけだと思った。余計なものが何も入っていない。
「食べなさい」
それだけ言った。
実結はスプーンを持った。一口、食べた。
温かかった。喉を通って、胃に届いた。
朝から何も食べていなかったことを、その瞬間に思い出した。存在が確定していない間は、空腹も感じなかった。でも今は感じた。体が、食べ物を求めていた。存在が、確かにここにある証拠として。
沙織と美穂にも皿が出てきた。二人は「やったー」と声を揃えてスプーンを取った。
健三は自分の分は食べずに、コーヒーを飲みながら実結を見ていた。
「今夜は泊まっていきなさい」と健三は言った。「客間がある。狭いけど」
「でも、ご迷惑では......」
「なんもさ。迷惑なら言わん」
それで終わりだった。健三はそれ以上、何も聞かなかった。どこから来たか。なぜここにいるか。いつ帰るか。何も。
* * *
炒飯を半分ほど食べたところで、実結は視線が止まった。
本棚の隅に、カメラが置いてあった。
黒いボディ。OM系の形をしていた。でも母から譲り受けたOM-40とも、実結が持っていた祖父の形見のOM-3とも違う、もっと古い型をしていた。丁寧に手入れされているのが、遠目にもわかった。
「あのカメラ」と実結は言った。「健三さんのですか」
「M-1だ」と健三は言った。「まだ動く」
「今も、使うんですか」
健三は少し間を置いた。コーヒーカップを持ったまま、カメラの方を見た。見る目が、道具を見る目ではなかった。長年一緒にいたものを見る目だった。
「たまにな」と健三は言った。「山には登れんくなったが、屋上からでも、光は来るから」
「どんな光を、撮っていたんですか」
健三は少し間を置いた。コーヒーカップを持ったまま、窓の外を見た。夕闇が商店街に落ちて、店々の灯りが点り始めていた。橙色と黄色の光が、アスファルトの濡れた路面に滲んでいた。
「最近は、あんまりな」と健三は言った。「山はもう足が言うことを聞かんくなったから。でも目だけはまだ現役だと思っとる」
「どんな写真を撮ってたんですか」
「光を撮ってた」
短い答えだった。
実結が「光を?」と聞き返すと、健三は少し考えてから続けた。
「山の光は、平地と全然違う。空気が薄い分、光が直接来る。フィルターがない。だから残酷なくらい正直な光が当たる。岩も、雪も、花も、全部本当の色で見える」
それから健三は実結を見た。
「人間もな、そういう光の下では、本当の顔になる」
実結は何も言えなかった。
本当の顔。自分が今どんな顔をしているか、見当がつかなかった。SNSの画面越しに笑う顔でも、教室で透明になっていた顔でも、どれが本当なのかもうわからなかった。
「ゆっくり食べなさい」と健三は言った。「急ぐことは何もないから」
実結は頷いて、また炒飯を口に運んだ。
窓の外で、商店街の灯りがひとつひとつ増えていった。東札幌の夜が、琥珀色に深まっていった。
* * *
食事が終わって、沙織と美穂が帰ることになった。
玄関先で、沙織が実結の手を両手で握った。
「また明日ね」と言った。明日も来る前提で。
「うん」と実結は答えた。1998年の明日が来ることを、その時初めて、当たり前のように思った。
「したっけ、実結さん」と美穂が言った。「さっき五味先生に見せてたやつ、なに? 薄い板みたいなの」
「……企業秘密」
「そっかー」と美穂は特に気にした様子もなく、PHSをポケットに入れた。
二人が商店街の灯りの中に消えていくのを、実結は見送った。
背後で、健三が客間の扉を開ける音がした。
「タオルと着替えを置いておいた。佳奈のやつだが、サイズはそんなに変わらんだろう」
実結は振り向いて、健三を見た。
「佳奈さんは」と実結は聞いた。「今夜、帰ってきますか」
「今夜は写真部の連中と飯を食うって言ってた。帰りは遅い」と健三は少し目を細めた。「会うのは、明日でいい」
明日でいい。
その言葉が、実結には、ひどく優しかった。
急かさない。急がせない。山の流儀で、実結を待っていてくれる。
「おやすみなさい」と実結は言った。
「ああ」と健三は答えた。「よく眠れるさ。おやすみ」
* * *
客間の扉を閉めた。
部屋は小さかった。窓が一つ。カーテンの向こうに、東札幌の夜の灯りが滲んでいた。布団が敷いてあった。枕の匂いが、知らないはずなのに、どこか懐かしかった。
実結は布団の中に潜り込んだ。
天井を見た。
1998年の天井。
知らない天井。
明日、佳奈さんに会う。
五味先生が言っていた、写真部の、OM-40を使っている、自由奔放な子。母の高橋佳奈と同じ名前の、別の誰か。
その事実を胸の中で確かめながら、実結は目を閉じた。
停止液の匂いはもうしなかった。代わりに、コーヒーと、生姜と、誰かの家の匂いがした。
眠りは、すぐに訪れた。
昔の写真には、今よりずっと「待つ時間」があった。
シャッターを切って終わりじゃない。
現像して、定着して、ようやく像が浮かび上がる。
失敗するかもしれない不安ごと、暗室の中で抱え込むしかなかった。
人間も、たぶん同じだ。
すぐに答えが出ない夜がある。
自分が何者か分からなくなる時間もある。
だが、それでも誰かの家の灯りや、差し出された飯の温度で、人は少しずつ輪郭を取り戻していく。
この物語で描きたかったのは、時間移動そのものじゃない。
「存在を受け止めてもらう瞬間」だ。
喫茶店の灯り。
古いカメラ。
東札幌の夕暮れ。
そういう小さなものが、実結をこの世界へ繋ぎ止めている。
たぶん人間は、大きな奇跡より先に、誰かの「おかえり」で救われる。




