第7話 現像されない記憶
人は、匂いの記憶から逃げられない。
古いアルバムを開いた時の紙の匂い。雨の日のアスファルト。誰かの家のストーブ。そういうものは、時々、記憶より先に心を過去へ連れていく。
今回の話では、「停止液の匂い」がその役目をしている。
暗室という閉じた空間。
緋色の安全灯。
現像液と停止液。
そして、“三十二”という数字。
目に見えないはずの時間が、少しずつ輪郭を持ち始める回です。
実結はまだ、自分がどこに立っているのかを理解していません。
けれど五味先生は、理解している。
理解した上で、全部は語らない。
大人というのは、時々そういう生き物です。
知っていて、言わない。
守るために黙ることがある。
ただ、その沈黙にも温度はある。
今回の五味先生は、そんな人物として書きました。
あと、コーンポタージュは強い。
心が弱ってる時の、あったかい缶飲料は反則です。
では、緋色の暗室の続きをどうぞ。
「座って」と五味先生は言った。
丸椅子を引いて、実結の前に置いた。
「怖くないから、少し話を聞かせてもらえる?」
実結は座った。座れた。椅子が、ちゃんと実結を受け止めた。
「答えられる範囲でいいわ」と五味先生は言った。「ただ、嘘はつかないでね。私はね、嘘をついた現像液と停止液の見分けくらいはつくから」
意味はよくわからなかったが、実結は頷いた。
「カメラを持っていたわよね。今はどこにあるの?」
「......消えました。こっちに来た時に」
「そう」と五味先生は言った。責めなかった。「機種は? どんなカメラだった?」
「OLYMPUS OM-3です。祖父が使っていたもので、母が形見として持っていたのを、私に渡してくれて」
五味先生の眉が、ほんの僅かに動いた。それだけだった。でも実結には、何かが変わったとわかった。
「......OM-3」と五味先生は繰り返した。確かめるように。「他にも、カメラを持っていた?」
「OM-40も。母がサブ機として使っていたものを、一緒に渡されて」
「そのOM-3、フィルムカウンターが壊れていなかった?」と五味先生は言った。
「はい。ずっと32のまま動かなくて。修理すれば直るはずなのに、祖父も母も、なぜか直さなかったみたいで」
「32」と五味先生は繰り返した。
今度は眉も動かなかった。でも声の質が、一層静かになった。水面に何かが落ちて、波紋が広がる前の、あの一瞬の静けさに似ていた。
「シャッターを切った時、何が起きたか、教えてもらえる?」
「ミラーが上がったまま、戻ってこなくて。ファインダーが真っ暗になって——それが、すごく長かった。体の感覚が全部なくなって、でも匂いだけはあって」
「匂い?」と五味先生は少し前のめりになった。「どんな匂い?」
「酸っぱい、刺激臭。最初はわからなかったけど、ここに来てわかりました。停止液の匂いだって」
五味先生は、長い息を鼻から吐いた。呆れているのでも感心しているのでもなく、ただ確認しているような息だった。
「どのくらい、暗かったと思う? 秒数で言えそう?」
「数えてなかったけど......三十秒くらい、かな。もう少しあったかもしれない」
「三十二秒ね」と五味先生は言った。断言だった。
実結は「え」と言ったが、五味先生はそれには答えなかった。代わりに腕組みを解いて、白衣のポケットから煙草のケースを取り出した。火はつけなかった。ただケースを指の間で弄んで、また仕舞った。
「スマートフォン、バッテリーはどのくらい残ってる?」
実結は画面を点けた。
「三十二パーセントです。充電できないから、ほとんど使わないようにしていて。なぜかこの数字から減らなくて」
「三十二、か」と五味先生は言った。独り言のように、でも実結に向かって。
「何か、意味があるんでしょうか......」と実結は聞いた。
「さあ」と五味先生は言った。「偶然かもしれないし、そうじゃないかもしれない。私にはわからないわ」
でも、その「わからない」は、本当にわからないのではないかもしれないと実結は思った。五味先生の目が、何かを知っている目をしていたから。
「ちょっと聞いてもいい? お母さんの名前」
「高橋佳奈、です。旧姓が高橋で」
「佳奈」と五味先生は言った。それだけだった。
「母のことを知っているんですか」と実結は尋ねた。
「さあ、高橋さんは知らないわ」と五味先生は言った。少し間を置いて。「でも、OM-40を使っている佳奈という子なら、ここにいるけれど」
実結は首を傾げた。
「......偶然ですね、同じ名前」
五味先生は何も言わなかった。
ただ、その沈黙の中に、何かが畳まれているとわかった。
* * *
「先生」と実結は言った。
「うん?」
「さっき、また、って言いましたよね」
沈黙があった。
長い沈黙だった。安全灯が緋色の光を等しく降らせる中で、五味先生は実結から視線を外して、現像トレイの方を見た。何も入っていないトレイ。乾いた底に、停止液の古い痕が、微かに染みになっていた。
「......私がね」と彼女は言った。声が、少し変わった。授業をする声でも、顧問として指示する声でもない。もっと個人的な場所から出てくる声だった。「村瀬織江として、この学校に通っていた頃のことよ」
実結は息を詰めた。
「ある日、暗室に来たら、見知らぬ顔がいたの。あなたと同じような顔をしたやつが。どこから来たかも、なぜ来たかも、何も説明できないくせに、ただそこにいた」
「その人は——」
「詳しいことは言わない」と五味先生は遮った。静かに、でも確実に。「言う必要がないから。......ただ、そういうことが起きると知っている。それだけよ」
実結は何も言えなかった。
この女性が過去に何を見て、何を抱えてきたのか。白衣の下に、どれだけの年月が畳まれているのか。その量の重さだけが、暗室の空気越しに伝わってきた。
* * *
「現実的な話をするわね」と五味先生は言った。声が元の温度に戻っていた。「今夜、どこに泊まるつもり? 帰れないんでしょ、すぐには」
「……わかりません」
「スマートフォンは使えない。お金もない。1998年の言葉は話せても、この時代の人間関係は何もない。合ってる?」
全部、合っていた。実結は頷いた。
「一つだけ、使える手があるわ」と五味先生は言った。「喫茶小鳥遊っていうお店。今夜そこに泊めてもらえるように連絡しておいてあげる」
喫茶小鳥遊。
知らない名前だった。でも今夜泊まれる場所があるということ、それだけが、今の実結には必要だった。
「なんで、そこまで......」と実結は言った。
五味先生は答えなかった。
応える代わりに、実結と目線の高さが合うように、少しだけ姿勢を変えた。眼鏡の奥の目が、緋色の光の中で、実結を真っ直ぐに見た。
「麻倉さん」
「はい」
「この1998年は、あなたのものじゃない。でも、だからといって、何も起きない場所でもないのよ」と彼女は言った。一度だけ、暗室の天井を見上げた。安全灯の緋色が、白衣の肩に落ちた。「フィルムと同じ。光を当てた瞬間から、現像は始まってるから。取り消せないの」
実結は、その言葉を飲み込もうとした。
「……帰れますか、私」
「さあ」と五味先生は言った。あっさりと。「私は化学教師であって、予言者じゃないから」
それだけ言って、彼女は暗室の奥へ戻っていった。引き伸ばし機のスイッチを入れる音がした。仕事に戻ったのだとわかった。
* * *
実結は丸椅子の上で、しばらく動けなかった。
緋色の光が、四方から等しく降り注いでいた。どこにも影ができない不思議な明るさの中で、実結は自分の手のひらを見た。さっき沙織に繋がれた手。椅子に座れた手。確かに存在している手。
フィルムに、光が当たった。
現像は、もう始まっていた。
* * *
暗室の扉を開けると、廊下に沙織と美穂がいた。
二人とも缶ジュースを持っていた。沙織が実結を見て、手にした缶を一本差し出した。
「はい、あったかいやつ」
「……いいの?」
「五味先生のおごりだから」
受け取った。缶の温度が、掌に広がった。自動販売機のコーンポタージュ。2030年ではほとんど見なくなった、黄色い缶。
プルタブを引いた。
湯気が、細く立ち上った。
一口飲んだ。
とろりとした甘さと、コーンの香ばしさが、喉を通った。温かさが、胃の奥まで届いた。安心する温かさだった。
お腹が空いていたことに、その時はじめて気づいた。
存在が、確定してきたのかもしれないと思った。必要なものが、また戻ってきた。
「大丈夫だった?」と沙織が缶を持ちながら聞いた。
「うん」と実結は言った。
「五味先生、怖くなかった?」
「……舌打ちが最初にきたけど」
「あー」と沙織は言った。「あれは大丈夫。怒ってる時と全然違うから。あの舌打ちは、なんていうか、驚いた時の口癖みたいなもんで。怒ってる時はもっと静かになるよ、あの先生。怖いくらい静かに」
美穂がPHSをポケットにしまいながら言った。
「今から喫茶小鳥遊まで、一緒に行ってあげる。場所、わかんないでしょ」
廊下の窓の外、札幌の三月の夕暮れが、薄紅鼠色に沈んでいた。
この回は、「説明回」でありながら、できるだけ説明しすぎないように気をつけて書きました。
タイムスリップの仕組み。
“三十二”の意味。
五味先生が過去に見たもの。
まだ断片しか出していません。
でも、断片だからこそ、怖いものってあるんですよね。
個人的に好きなのは、五味先生が「予言者じゃないから」と言う場面です。
あの人、たぶんかなり知ってるんですよ。
知ってるくせに、「わからない」と言う。
教師としてではなく、一人の人間として、実結を見始めているからです。
そして実結の側も、「存在が確定してきた」という感覚を得始める。
椅子に座れる。
温かい缶を持てる。
お腹が空く。
人間って、案外そういう小さな感覚で、「ここにいる」を取り戻していくのかもしれません。
次から、物語は少しずつ動き始めます。
現像は、もう止まりません。




