第6話 五味先生の舌打ち
人は、ある日突然「どこにも届かなくなる」ことがある。
教室の中で。
友達の輪の中で。
スマートフォンの画面越しで。
ちゃんと存在しているはずなのに、自分だけが少しずつ薄くなっていくような感覚。
この物語の始まりにいる麻倉実結も、そんな場所に立っていました。
ただ彼女の場合、気づけば本当に、誰にも見えない場所へ辿り着いてしまった。
1998年。
停止液の匂いが残る暗室。
赤い安全灯の下で、彼女はひとり目を覚まします。
でも、この話は「孤独」の話で終わりません。
誰にも見えなかったはずの彼女を見つける人がいた。
手を伸ばす人がいた。
そして、事情を知っているらしい大人がいた。
時代が違っても、人は案外、人を拾ってしまう生き物なのかもしれません。
この物語には、大きな戦いも、世界を救う英雄も出てきません。
あるのは、誰かの体温とか、放課後の匂いとか、言葉にできない違和感とか、そういう小さなものばかりです。
けれど、人が生き延びる理由というのは、案外そういうものの中にあるのだと思います。
暗室で写真が少しずつ浮かび上がるように、
この物語もまた、ゆっくり輪郭を現していきます。
どうか最後まで、付き合っていただければ幸いです。
沙織の手は、温かかった。
実結はその温度を失わないように、ほとんど縋るようにして廊下を歩いた。繋がれた手のひらを通じて、1998年の体温が少しずつ染み込んでくる感覚があった。
朝からずっと、何にも触れられなかった。何にも届かなかった。その時間の長さが、沙織の手の温度をひどく貴重なものにしていた。まるで、長い冬の後に初めて触れる、日向の石のような温かさだった。
廊下は、放課後の匂いがした。
上履きのゴムと、チョークの粉と、どこかの教室から漏れてくる部活の声。
実結の知っている学校の匂いと、そう遠くはなかった。
でも照明の色が違った。2030年のLEDよりも黄味がかった蛍光灯の光が、廊下の床に長方形の光溜まりをつくっていた。琥珀に近い色。その光の中を、実結は沙織に引かれて歩いた。
美穂は二人の後ろを、PHSを見ながらついてきた。
「五味先生って、今どこにいるの」と実結は小声で聞いた。
「職員室か、暗室か、どっちかだと思う」と沙織は言った。「あの先生、放課後は大体どっちかにいるから」
「暗室?」
「写真部の。顧問なんだよ、化学担当なのに。なんか、そっちの方が好きみたいで」
美穂がPHSから顔を上げて付け加えた。
「職員室にいない時は、必ず暗室。なんかあそこで考え事するんだって」
廊下の突き当たりを左に折れた。階段を一つ下りた。校舎の北側は光が届きにくく、空気がひんやりとしていた。札幌の三月は、まだ冬を手放していない。窓の外の中庭に、雪の残骸が白鼠色の塊になって蹲っていた。
扉の前で、沙織が足を止めた。
表札はない。でも扉の隙間から、かすかに漏れてくるものがあった。
匂いだ。
実結の鼻が、それを知っていた。暗室で目覚めた時に最初に嗅いだ、あの刺々しい刺激。停止液の残り香が、扉の向こうから薄く滲み出ていた。
体の奥の、言葉になる前の場所が、その匂いに反応した。
沙織がノックした。
返事はなかった。でも沙織は慣れた様子で扉を開けた。
緋色の光が、廊下に漏れた。
暗室の安全灯が、室内を満たしていた。さっき実結が目覚めた場所と同じ色——でも今は怖くなかった。赤い光の中に、人がいたから。
人影が、こちらに背を向けていた。
白衣を着た女性が、引き伸ばし機の前に立って、何かを確認していた。背は高くない。髪は後ろで雑に束ねてあって、数本がほつれて首筋に落ちていた。
「五味ちゃん、ちょっといい?」と沙織が言った。
女性は振り向かなかった。
「……帰りなさい、衛藤。今日は部活ないわよ」
「知ってる。したっけちょっと、拾っちゃって」
沈黙があった。
引き伸ばし機の前の人影が、動いた。ゆっくりと振り向いた。
緋色の光の中で、実結は初めてその顔を見た。
三十代前半だと思った。眼鏡をかけていた。縁が細く、レンズの奥の目が、鋭かった。疲れているのではなくて、長いものを見続けてきた目の鋭さ。ファインダーを長年覗いてきた人間の目に似ていると、実結は後になって気づく。
女性の視線が、沙織を通り越して、実結の上に止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
ちっ、と。
小さな舌打ちが、暗室の中に落ちた。
実結は半歩、後ずさっていた。自分でも気づかないうちに。緋色の光の中で、眼鏡の奥の目がこちらを見ていた。怒っているのとは違う。でも、温かくもない。なんと形容すればいいかわからない目が、真っ直ぐに実結を捉えていた。
「……また、か」
呟きは、独り言のような音量だった。でも実結には、はっきりと聞こえた。
また。
その一語に、実結は全身の産毛が逆立つ感覚を覚えた。
「五味ちゃん、もしかして知り合い?」と沙織が首を傾げた。
「違う」と女性は即座に言った。「衛藤、倉田。悪いけど少し席を外してくれる? ジュース代、あげるから」
「え、やった!」
「職員室の私の机の引き出し、一番上。小銭入れがあるから百五十円ずつ持っていきなさい」
「五味先生大好き」
「こんなときだけ、先生つけんな。早く行って」
沙織が美穂を引っ張って、廊下に出た。扉が閉まった。
緋色の光の中に、実結と女性だけが残された。
停止液の匂いが、濃くなった気がした。
女性は白衣のポケットに手を突っ込んで、まじまじと実結を見た。実結も見た。眼鏡の奥の目が、値踏みするというのとも違う、もっと落ち着いた観察をしていた。写真を撮る人間の目。被写体を測る目。
「麻倉、実結です」と実結は言った。自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「五味織江。化学担当、兼写真部顧問よ」と女性は言った。それから少し間を置いて。「……で、あなたはどこから来たの」
「東京、です。でも、たぶんそういう意味じゃないですよね」
女性が、ほんの少し目を細めた。
「そのバックライトで光る板」と彼女は言った。実結のスマートフォンを、顎で示した。「見せてもらえる?」
実結はスマートフォンを差し出した。五味先生はそれを受け取って、裏表を確かめた。薄さを確かめた。ディスプレイの大きさを確かめた。触れる指が、一瞬だけ、かすかに震えた。
それだけだった。震えはすぐに止まった。
「……だいたい、わかったわ」
彼女はスマートフォンを返した。白衣のポケットに両手を戻して、暗室の中を一度だけ見回した。現像トレイ。印画紙。安全灯の緋色。
「何年から来たの?」と彼女は聞いた。
「......2030年」
また、舌打ちが落ちた。今度は最初より少し長かった。
「三十二年」と彼女は言った。数字を確かめるように、ゆっくりと。「……そう。三十二年、か」
実結は聞き返せなかった。その言葉の重さの正体が、その時の実結にはまだわからなかった。ただ、五味先生の声の中に、驚きがなかったことだけは、わかった。
暗室の安全灯が、二人の顔を等しく、緋色に照らしていた。
この物語を書きながら、ずっと考えていたことがあります。
「見えている」とは、どういうことなんだろう、と。
人は毎日たくさんのものを見ています。
でも実際には、見えていないものの方が多いのかもしれません。
誰かの孤独。
誰かの限界。
誰かが必死に飲み込んだ言葉。
そういうものは、大抵、静かな場所に沈んでいきます。
実結は、一度「完全に届かない場所」へ落ちました。
けれどそこで初めて、自分を見つける人たちに出会います。
沙織のまっすぐさ。
美穂の静かな観察眼。
そして、五味先生のあの視線。
彼女たちは特別な英雄ではありません。
ただ、自分の前に現れた誰かを見捨てなかった人たちです。
たぶん、人を救うのはいつだって、そういう小さな選択なのだと思います。
それから、この作品には「匂い」をたくさん書きました。
停止液の匂い。冬の校舎の匂い。放課後の空気。
記憶というのは、案外そういう感覚に強く結びついている気がしています。
いつか皆さんの中にも、「あの時の匂い」を思い出す瞬間があるかもしれません。
この物語が、その記憶の片隅に、静かに残ってくれたなら嬉しいです。




