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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
序章:シャッター・ブラックアウト

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5/6

第5話 はじめて、誰かに触れた

誰にも見えなかった少女が、はじめて「見つけられる」までの話。


透明であることは、静かだ。

傷つく声すら返ってこない。

世界から弾かれたまま、時間だけが過ぎていく。


だからこそ、「見えているよ」と言われることは、時に救済になる。


この序章は、麻倉実結が1998年という異物の中で、最初の接続を得る瞬間までを描いた物語です。

それはタイムスリップの始まりであると同時に、彼女自身が再び“像を結び始める”瞬間でもあります。

 放課後になった。


 太陽が西へ傾いて、校舎の影が校庭に長く伸びた。空は薄紅うすくれないから白藤しらふじへ、ゆっくりと色を移していた。


 実結はずっとそこにいた。朝からずっと、ベンチの上に。

 寒くも暑くもなかった。お腹も空かなかった。存在していないということは、そういうことなのかもしれないと、実結はぼんやり思った。

 必要なものが何もない。消耗しない。ただ、時間だけが過ぎていく。まるで、フィルムカウンターが動かないまま、シャッターだけが空切りされ続けているような感覚だった。


 屋上の扉が、開いた。

 足音が、二つ分あった。


「——いやー、今日の五味ちゃんの授業、睡眠学習に最適すぎてさ」

「ちょっと沙織、聞こえたらどうするの」


 笑い声。

 軽い、弾けるような笑い声だった。


 実結は顔を上げた。

 女子生徒が二人、やってきた。


 一人は制服の袖をまくっていた。快活そうな笑顔をしていた。いかにも、どんな場所でも自分のペースで生きていけそうな人間の顔をしていた。

 もう一人は、コードのようなものを手に巻き付けながら、画面の小さな機器を器用に操作していた。PHSという携帯電話機だと、後で知った。


 そんな二人を実結は見ていた。どうせ見えないと思いながら。


 快活な方の女子が、ふと立ち止まった。

 視線が、実結の方を向いた。

 通り過ぎない。

 逸れない。

 実結の目と、真っ直ぐに、合った。


「......ねえ、美穂」

 声が、少し変わった。

「なに」

「あそこに、誰かいない?」

 もう一人がPHSから顔を上げた。実結を見た。小首を傾げた。

「......いるね」と言った。「なんか、様子おかしくない?」


 実結は、息を飲んだ。

 見えている。

 声が、届いている。

 朝からずっと、何十人もの生徒に届かなかった言葉が、この二人には届いていた。


「大丈夫?」


 快活な方が、近づいてきた。一歩、また一歩。朝から何十人と声をかけてきたが、こちらへ向かってきた人間は、一人もいなかった。

 実結は答えようとして、声が出なかった。

 喉が震えていた。震えていることに、その時はじめて気づいた。


「......ここ、どこ、ですか」


 出てきたのは、その一言だった。場所を聞いたのではなかった。でも他に言葉が見つからなかった。

 快活な女子は一秒だけ実結を見て、それからもう一人と目を合わせた。何かを察したような顔で、実結の隣に腰を下ろした。


「ヒガコー。私立東札幌高等学校」と言った。それから、少し声を柔らかくして。

「......あんた、名前は?」

「麻倉、実結......」

「実結ちゃん、ね。よろしく。私、衛藤沙織。こっちが倉田美穂」


 美穂がPHSをポケットに入れて、小さく頷いた。

 沙織が立ち上がった。


「事情はわかんないけど、したらとりあえず」


 手を、差し伸べた。

 実結はその手を見た。

 掴んでいいかどうか、わからなかった。触れたら、また、すり抜けてしまうかもしれないと思った。朝からずっと、何も掴めなかったから。壁も、扉も、ノブも、誰の袖も。


 それでも、すがる思いで手を伸ばした。

 沙織の手が、しっかりと、実結の手を握った。

 温かかった。

 はじめて、何かに触れた。

 この1998年で、はじめて、誰かに繋がれた。


 実結の目から、何かがこぼれた。拭こうとして、でも拭けなかった。沙織はそれを見なかったふりをして、「行こ」とだけ言って、歩き出した。


「五味ちゃんとこ、連れてく。あの先生、こういうの、強いから」


 五味先生。

 知らない名前だった。


 でも今の実結には、その名前の意味を考える余裕がなかった。

 ただ、繋がれた手の温かさだけが、確かだった。


 春の斜光が、屋上に薄く伸びていた。

 実結の輪郭に、はじめて、光が当たった。


 停止液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

 でも今は、その匂いが怖くなかった。

 この時代の最初の匂いが、どこかへ連れて行ってくれる気がした。


序章 了

序章全体を通して描きたかったのは、「存在の定着」です。


実結は2030年で、少しずつ透明になっていた。

そして1998年では、文字通り世界に触れられなくなった。


その状態で初めて掴まれる手には、単なる接触以上の意味があります。


また、沙織と美穂を最初に“実結を認識できる存在”として配置したことで、この物語がホラーではなく、「人との接続」を軸にした話であることを示しています。


停止液の匂いで始まった世界は、ようやく“人の体温”を持ちはじめました。

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