第5話 はじめて、誰かに触れた
誰にも見えなかった少女が、はじめて「見つけられる」までの話。
透明であることは、静かだ。
傷つく声すら返ってこない。
世界から弾かれたまま、時間だけが過ぎていく。
だからこそ、「見えているよ」と言われることは、時に救済になる。
この序章は、麻倉実結が1998年という異物の中で、最初の接続を得る瞬間までを描いた物語です。
それはタイムスリップの始まりであると同時に、彼女自身が再び“像を結び始める”瞬間でもあります。
放課後になった。
太陽が西へ傾いて、校舎の影が校庭に長く伸びた。空は薄紅から白藤へ、ゆっくりと色を移していた。
実結はずっとそこにいた。朝からずっと、ベンチの上に。
寒くも暑くもなかった。お腹も空かなかった。存在していないということは、そういうことなのかもしれないと、実結はぼんやり思った。
必要なものが何もない。消耗しない。ただ、時間だけが過ぎていく。まるで、フィルムカウンターが動かないまま、シャッターだけが空切りされ続けているような感覚だった。
屋上の扉が、開いた。
足音が、二つ分あった。
「——いやー、今日の五味ちゃんの授業、睡眠学習に最適すぎてさ」
「ちょっと沙織、聞こえたらどうするの」
笑い声。
軽い、弾けるような笑い声だった。
実結は顔を上げた。
女子生徒が二人、やってきた。
一人は制服の袖をまくっていた。快活そうな笑顔をしていた。いかにも、どんな場所でも自分のペースで生きていけそうな人間の顔をしていた。
もう一人は、コードのようなものを手に巻き付けながら、画面の小さな機器を器用に操作していた。PHSという携帯電話機だと、後で知った。
そんな二人を実結は見ていた。どうせ見えないと思いながら。
快活な方の女子が、ふと立ち止まった。
視線が、実結の方を向いた。
通り過ぎない。
逸れない。
実結の目と、真っ直ぐに、合った。
「......ねえ、美穂」
声が、少し変わった。
「なに」
「あそこに、誰かいない?」
もう一人がPHSから顔を上げた。実結を見た。小首を傾げた。
「......いるね」と言った。「なんか、様子おかしくない?」
実結は、息を飲んだ。
見えている。
声が、届いている。
朝からずっと、何十人もの生徒に届かなかった言葉が、この二人には届いていた。
「大丈夫?」
快活な方が、近づいてきた。一歩、また一歩。朝から何十人と声をかけてきたが、こちらへ向かってきた人間は、一人もいなかった。
実結は答えようとして、声が出なかった。
喉が震えていた。震えていることに、その時はじめて気づいた。
「......ここ、どこ、ですか」
出てきたのは、その一言だった。場所を聞いたのではなかった。でも他に言葉が見つからなかった。
快活な女子は一秒だけ実結を見て、それからもう一人と目を合わせた。何かを察したような顔で、実結の隣に腰を下ろした。
「ヒガコー。私立東札幌高等学校」と言った。それから、少し声を柔らかくして。
「......あんた、名前は?」
「麻倉、実結......」
「実結ちゃん、ね。よろしく。私、衛藤沙織。こっちが倉田美穂」
美穂がPHSをポケットに入れて、小さく頷いた。
沙織が立ち上がった。
「事情はわかんないけど、したらとりあえず」
手を、差し伸べた。
実結はその手を見た。
掴んでいいかどうか、わからなかった。触れたら、また、すり抜けてしまうかもしれないと思った。朝からずっと、何も掴めなかったから。壁も、扉も、ノブも、誰の袖も。
それでも、すがる思いで手を伸ばした。
沙織の手が、しっかりと、実結の手を握った。
温かかった。
はじめて、何かに触れた。
この1998年で、はじめて、誰かに繋がれた。
実結の目から、何かがこぼれた。拭こうとして、でも拭けなかった。沙織はそれを見なかったふりをして、「行こ」とだけ言って、歩き出した。
「五味ちゃんとこ、連れてく。あの先生、こういうの、強いから」
五味先生。
知らない名前だった。
でも今の実結には、その名前の意味を考える余裕がなかった。
ただ、繋がれた手の温かさだけが、確かだった。
春の斜光が、屋上に薄く伸びていた。
実結の輪郭に、はじめて、光が当たった。
停止液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
でも今は、その匂いが怖くなかった。
この時代の最初の匂いが、どこかへ連れて行ってくれる気がした。
序章 了
序章全体を通して描きたかったのは、「存在の定着」です。
実結は2030年で、少しずつ透明になっていた。
そして1998年では、文字通り世界に触れられなくなった。
その状態で初めて掴まれる手には、単なる接触以上の意味があります。
また、沙織と美穂を最初に“実結を認識できる存在”として配置したことで、この物語がホラーではなく、「人との接続」を軸にした話であることを示しています。
停止液の匂いで始まった世界は、ようやく“人の体温”を持ちはじめました。




