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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
序章:シャッター・ブラックアウト

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第4話 透明な朝、届かない声

「見えていない」と「見ないふりをされる」は、似ているようで全く違う。


麻倉実結は、それを知っている。


グループトークの外側に押し出される感覚。

返事の来ない沈黙。

タグ付けされない写真。


それらは痛かった。

けれど少なくとも、そこには“他人”がいた。


だが1998年の校舎で実結が触れたのは、もっと根源的な孤独だった。

存在そのものが、世界から認識されていないという感覚。

透明とは、こういうことだった。

 気づいたら、光があった。

 黄蘗きはだ色の朝光が、廊下の窓から長く伸びていた。


 眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか意識が途切れていたらしかった。体の感覚がない分、疲れも眠気も感じないはずだったのに。それとも、存在が曖昧なまま、時間だけが過ぎていったのか。


 校舎の外が、賑やかだった。

 声と靴音と、鞄の擦れる音が重なり合いながら近づいてくる。

 学生服を着た生徒たちが、やってくる。


 実結はとっさに立ち上がった。廊下の中程に立った。

 男子が三人、笑いながら歩いてきた。

 実結は目を閉じた。


 通過していった。

 人が、実結を通過した。


 ぶつかる感触はなかった。気配だけが、横を流れた。開けた目の前を、誰かが当たり前のように歩いていた。実結のことなど、最初から存在していないかのように。


     * * *


 試してみた。

 近くにいた女子生徒に声をかけた。

「あの」と言った。

 女子生徒の目が実結の方を向いた気がしたが、すぐに逸れた。

 もう一度。

「すみません」。


 無視ではなかった。見えていない、のだとわかった。


 その違いは、実結には痛いほどわかった。無視される時の感触と、存在しない時の感触は、全然違う。グループトークで経験してきたのは前者だったけれど、これは後者だった。もっと根本的な透明さ。


 何度も試した。廊下で声をかけた。教室の前で呼び止めようとした。人の顔の前に手を振った。

 何も届かなかった。


     * * *


 屋上へ出た。

 扉は、相変わらず素通りした。

 札幌の三月の朝の空気が、頬を刺した。東京の三月とは違う冷たさだった。息が、白かった。思わず体を縮めたが、寒さはすぐに消えた。体温がないのか、感覚がないのか、わからなかった。


 ベンチを見つけて腰を下ろした。

 不思議なことに、ベンチだけは実結を受け止めた。座れた。

 なぜベンチだけ座れるのか。扉は素通りしたのに。壁は通り抜けそうになったのに。


 理由はわからなかった。

 ただ、座れた。それだけが、確かだった。


 伏せたスマートフォンの画面を、長い時間見ていた。電波は来なかった。誰にも届かなかった。既読もつかなかった。通知もなかった。2030年のすべてが、圏外になっていた。


 解放されたはずなのに、実結はベンチの上で膝を抱えた。

 逃げ出したかったわけじゃなかった。


 ただシャッターを押しただけなのに、気づけば誰にも届かない場所にいた。透明なまま、1998年の春の屋上に座っていた。


 校庭から声が聞こえた。

 遠く、部活の掛け声。跳ねるような笑い声。

 全部、実結には届かなかった。


 スマートフォンの画面を、もう一度点けた。

 1998年3月。

 電波はない。


 2030年の実結を知っている人間が、このスマートフォンの向こうに全員いる。クラスメイトも。担任も。母も。でも誰にも届かない。


 グループトークで透明になっていた時と、何が違うのだろうと実結は思った。

 あの時も、届かなかった。


 でも、あの時は画面の向こうに人がいた。

 今は、画面の向こうに時間がいない。

 そっちの方が、ずっと遠かった。


 停止液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。


 朝から何時間経ったか、わからなかった。

 空の色が、白群びゃくぐん色から少しずつ傾いていった。

 それだけが、時間の経過を教えてくれた。

この場面では、「幽霊のような状態」を恐怖演出としてではなく、“接続不能”として描いています。


誰にも見えない。

触れられない。

声が届かない。


しかし実結にとって本当に苦しいのは、その状況が現代で感じていた孤立感と、地続きに思えてしまうことです。


だから「無視」と「存在しない」の差異に、彼女は敏感です。


また、ベンチだけ座れる描写は重要な伏線でもあります。

この世界は完全な物理法則ではなく、「定着したもの」にだけ反応している。

写真というテーマに繋がる、“像が残る”という感覚の始まりです。

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