第4話 はじめて、誰かに触れた
校舎から聞こえてくる喧騒が、より大きく複雑になった。
どうやら放課後になったようだった。
実結はずっと屋上にいた。
朝からずっと、座ったベンチの上で。
昼休みにも、実結がいる屋上は生徒の出入りが多かったが、なぜか実結の座っているベンチには誰も近づいてこなかった。また、声をかけてくる生徒もいない。
気候は、実結の住む東京より寒いと思う。
きっと北の方。地面にはうっすらと白いものが見えたから、北国であろうことはわかった。
肌寒さも感じない。不思議とお腹も空かなかった。
相手に認識されていない透明な私。
存在していないということは、そういうことなのかもしれないと、実結はぼんやりと考えていた。
必要なものは何もない。
だって、消耗するものがないから。
時間だけが、ただ通り過ぎていくのだが実感がない。
まるで、シャッターを切って、フィルムを巻いているのに、フィルムカウンターは止まったまま動かないような奇妙な感覚。
さらに時間が少し経った頃、屋上の扉が開く。
それに合わせて、二人分の足音が響いてきた。
「——いやぁ。今日の五味ちゃんの授業、なまら眠かったさ。睡眠学習に最適すぎて、意識失ってたっしょ」
「ちょっと、沙織。聞こえたらどうするの、もぅ」
笑い声。
軽い楽し気な、はじけるような笑い声。
つられて実結は顔をあげた。
屋上の出入口に視線を向けると、女子生徒が二人、屋上にやってきたところだった。
一人目は制服の袖をまくっており、胸の位置までの長い髪が風に揺れ、快活そうな笑顔をしている。
いかにも、どんな環境でも自分のペースで生きていけそうな、人間の顔。
もう一方の生徒は、コードのようなものを手首に巻き付けながら、画面の小さな端末——実結はあとでPHSだと知る――携帯電話だろうか。その機器を片手で器用に操作していた。
そんな二人の動きを目で追いながら、どうせ私は見えないのだろうとあきらめていた。
快活に見えたロングヘアの少女が、ふと立ち止まった。
視線が、実結の座っているベンチの方を向いた。
通り過ぎない。
視線が逸れない。
実結の瞳を、まっすぐに捉えていた。
「……ねぇ、美穂っち」
先ほどまでの声とは違い、落ち着いた声。
「なに?」
「あそこにさ、誰かいない?」
ボブカットの少女が、PHSの画面から顔をあげて、眼鏡の向こうの瞳が細くなった。
「……いるね。でも、様子がおかしいよ」と言った。「何か透けてない?」
実結は、そのやりとりを聞いて、息をのむ。
見えている。
第三者に視界に捉えられている。
声が届くかもしれない。
朝から幾度となく試して届かなかった私の言葉が。
この二人には届くかもしれないという希望が。
「あなた……大丈夫?」
ロングヘアの少女が近づいてきた。
一歩、また一歩。
実結が朝から何十人と声をかけてきて、反応がなく、私に向かって話しかけてきた人間は、これが初めてだった。
あまりに突然のことで、実結はとっさに声が出なかった。
喉は声を出そうと震えていた。
意思に反して出てきた声は、小さく消え入りそうなか細さだった。
「……あの、ここは、どこ、ですか?」
実結は少しずつ、切れ切れに言葉を紡ぐ。それでもやっと口から出てきた言葉だった。
ロングヘアの少女は、一秒だけ実結をまっすぐ見て、それから振り返って、もうひとりの少女と目をあわせる。
そして、何かを察したような表情で、実結のとなりに腰掛けた。
「ここ? ここはヒガコー。私立東札幌高等学校」と告げた。それから、少し話し声を柔らかくして続けた。
「……あんた、名前は?」
「朝倉、実結……」
「みゆちゃんね。よろしく。で、どんな字を書くの?」
「木の実の実に、結んで、結よ。それで実結」
「そうなんだ。私、衛藤沙織。サンズイに少ないって書いて、織物を織るで、沙織。こっちが、倉田美穂。幹事は……あの有名人と一緒。わかるっしょ?」
「衛藤さんと、倉田さん?」
「うーん、沙織でいいよ。美穂も、それでいいよね?」
ショートボブの少女も、大きく頷いた。
「私も、実結ちゃんって呼ぶからさ」
美穂もPHSをポケットにしまいながら、再び頷く。
沙織が立ち上がる。
「ここにいる事情はよく分からないけど……したら、とりあえず……」
沙織は、実結の目の前に手を差し伸べた。
実結は、思わず手を差し出すことを忘れ、その手をまじまじと見つめてしまう。
差し出された手を握っていいのかどうか、悩んでしまう。触れたら、またすり抜けてしまうのではと、疑心暗鬼になる。
昨日の夜から今までに、ドアノブや窓のクレセント錠、壁や扉、人に至っても掴むこともできず、通りぬけてしまう。
「大丈夫だよ? ちょっと場所を変えるだけ。ほらっ……」
沙織に重ねて言われ、実結は意を決して、自分の手を伸ばした。
それを迎えるように、沙織の手が包み込むように、実結の手をやさしく握った。
温かかった。
はじめて、何かに触れた。
そして、温度を感じた。
この1998年において、はじめて誰かに繋がれた。
ひとりだけの奇妙な孤独は終わりを告げた。
思わず、実結の頬を涙が伝う。
拭おうとして、でも拭いきれず、あとからあふれてくる。
沙織はそれを見なかった振りで、強く手を引き歩き出す。
「さあ、行こ! 五味ちゃんとこ、連れてく。あの先生ならこういうこと、強いっしょ。たぶん……」
五味、先生?
知らない、名前がまたひとり。
でも、ひとりぼっちの世界だった、屋上のベンチから、連れだしてくれたこの二人の生徒に導かれるままに、歩くのが精いっぱいで、今の実結には、その名前の意味を考える余裕はなかった。今、どこにいるかということも。
ただ、繋がった手の温かさは、確かなものとして、認識できていた。それがもう、嬉しかった。
春の斜光が、屋上に薄く伸びていた。
実結の輪郭をなでるように、はじめて光が当たる。
停止液の匂いがまだ、鼻孔の奥に残っていた。
でも今は、その匂いが怖くなくなった。
この時代最初に嗅いだあの匂い。
どこかへ私を誘ってくれるような、気がしてならなかった。




