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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:3月/停止液の街

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第4話 はじめて、誰かに触れた

 校舎から聞こえてくる喧騒が、より大きく複雑になった。

 どうやら放課後になったようだった。


 実結はずっと屋上にいた。

 朝からずっと、座ったベンチの上で。

 

 昼休みにも、実結がいる屋上は生徒の出入りが多かったが、なぜか実結の座っているベンチには誰も近づいてこなかった。また、声をかけてくる生徒もいない。


 気候は、実結の住む東京より寒いと思う。

 きっと北の方。地面にはうっすらと白いものが見えたから、北国であろうことはわかった。

 肌寒さも感じない。不思議とお腹も空かなかった。

 相手に認識されていない透明な私。

 存在していないということは、そういうことなのかもしれないと、実結はぼんやりと考えていた。

 

 必要なものは何もない。

 だって、消耗するものがないから。


 時間だけが、ただ通り過ぎていくのだが実感がない。

 まるで、シャッターを切って、フィルムを巻いているのに、フィルムカウンターは止まったまま動かないような奇妙な感覚。


 さらに時間が少し経った頃、屋上の扉が開く。

 それに合わせて、二人分の足音が響いてきた。

 

「——いやぁ。今日の五味ちゃんの授業、なまら眠かったさ。睡眠学習に最適すぎて、意識失ってたっしょ」

「ちょっと、沙織。聞こえたらどうするの、もぅ」


 笑い声。

 軽い楽し気な、はじけるような笑い声。


 つられて実結は顔をあげた。

 屋上の出入口に視線を向けると、女子生徒が二人、屋上にやってきたところだった。


 一人目は制服の袖をまくっており、胸の位置までの長い髪が風に揺れ、快活そうな笑顔をしている。

 いかにも、どんな環境でも自分のペースで生きていけそうな、人間の顔。


 もう一方の生徒は、コードのようなものを手首に巻き付けながら、画面の小さな端末——実結はあとでPHSだと知る――携帯電話だろうか。その機器を片手で器用に操作していた。


 そんな二人の動きを目で追いながら、どうせ私は見えないのだろうとあきらめていた。


 快活に見えたロングヘアの少女が、ふと立ち止まった。

 視線が、実結の座っているベンチの方を向いた。

 通り過ぎない。

 視線が逸れない。

 実結の瞳を、まっすぐに捉えていた。


「……ねぇ、美穂っち」


 先ほどまでの声とは違い、落ち着いた声。


「なに?」

「あそこにさ、誰かいない?」


 ボブカットの少女が、PHSの画面から顔をあげて、眼鏡の向こうの瞳が細くなった。


「……いるね。でも、様子がおかしいよ」と言った。「何か透けてない?」


 実結は、そのやりとりを聞いて、息をのむ。

 見えている。

 第三者に視界に捉えられている。

 

 声が届くかもしれない。

 朝から幾度となく試して届かなかった私の言葉が。

 この二人には届くかもしれないという希望が。


「あなた……大丈夫?」


 ロングヘアの少女が近づいてきた。

 一歩、また一歩。

  

 実結が朝から何十人と声をかけてきて、反応がなく、私に向かって話しかけてきた人間は、これが初めてだった。


 あまりに突然のことで、実結はとっさに声が出なかった。

 喉は声を出そうと震えていた。

 意思に反して出てきた声は、小さく消え入りそうなか細さだった。


「……あの、ここは、どこ、ですか?」


 実結は少しずつ、切れ切れに言葉を紡ぐ。それでもやっと口から出てきた言葉だった。

 

 ロングヘアの少女は、一秒だけ実結をまっすぐ見て、それから振り返って、もうひとりの少女と目をあわせる。

 そして、何かを察したような表情で、実結のとなりに腰掛けた。


「ここ? ここはヒガコー。私立東札幌高等学校」と告げた。それから、少し話し声を柔らかくして続けた。


「……あんた、名前は?」

「朝倉、実結……」

「みゆちゃんね。よろしく。で、どんな字を書くの?」

「木の実の実に、結んで、結よ。それで実結」

「そうなんだ。私、衛藤沙織。サンズイに少ないって書いて、織物を織るで、沙織。こっちが、倉田美穂。幹事は……あの有名人と一緒。わかるっしょ?」

「衛藤さんと、倉田さん?」

「うーん、沙織でいいよ。美穂も、それでいいよね?」


 ショートボブの少女も、大きく頷いた。


「私も、実結ちゃんって呼ぶからさ」


 美穂もPHSをポケットにしまいながら、再び頷く。

 沙織が立ち上がる。


「ここにいる事情はよく分からないけど……したら、とりあえず……」


 沙織は、実結の目の前に手を差し伸べた。

 実結は、思わず手を差し出すことを忘れ、その手をまじまじと見つめてしまう。

 差し出された手を握っていいのかどうか、悩んでしまう。触れたら、またすり抜けてしまうのではと、疑心暗鬼になる。

 昨日の夜から今までに、ドアノブや窓のクレセント錠、壁や扉、人に至っても掴むこともできず、通りぬけてしまう。


「大丈夫だよ? ちょっと場所を変えるだけ。ほらっ……」


 沙織に重ねて言われ、実結は意を決して、自分の手を伸ばした。

 それを迎えるように、沙織の手が包み込むように、実結の手をやさしく握った。


 温かかった。

 はじめて、何かに触れた。

 そして、温度を感じた。

 この1998年において、はじめて誰かに繋がれた。

 ひとりだけの奇妙な孤独は終わりを告げた。


 思わず、実結の頬を涙が伝う。

 拭おうとして、でも拭いきれず、あとからあふれてくる。

 沙織はそれを見なかった振りで、強く手を引き歩き出す。


「さあ、行こ! 五味ちゃんとこ、連れてく。あの先生ならこういうこと、強いっしょ。たぶん……」


 五味、先生? 

 知らない、名前がまたひとり。


 でも、ひとりぼっちの世界だった、屋上のベンチから、連れだしてくれたこの二人の生徒に導かれるままに、歩くのが精いっぱいで、今の実結には、その名前の意味を考える余裕はなかった。今、どこにいるかということも。


 ただ、繋がった手の温かさは、確かなものとして、認識できていた。それがもう、嬉しかった。


 春の斜光が、屋上に薄く伸びていた。

 実結の輪郭をなでるように、はじめて光が当たる。


 停止液の匂いがまだ、鼻孔の奥に残っていた。

 でも今は、その匂いが怖くなくなった。

 この時代最初に嗅いだあの匂い。

 どこかへ私を誘ってくれるような、気がしてならなかった。

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