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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
序章:シャッター・ブラックアウト

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3/7

第3話 停止液の記憶、扉の向こうへ

暗室には、昼と夜の境界がない。


赤い安全灯の下では、時間の感覚も、自分の輪郭も、少しずつ曖昧になっていく。

像が浮かび上がるまでの数十秒。

そこには「まだ世界になっていないもの」が存在している。


麻倉実結が目を覚ました場所も、そんな途中の空間だった。


ここがどこなのか。

なぜ1998年なのか。

そして、自分の身体が何を失い始めているのか。


まだ彼女は、そのどれも知らない。

 最初に気づいたのは、匂いだった。


 目が開く前から、それはあった。

 酢に似た、でも酢よりもずっと刺々しい刺激が、鼻腔の奥まで真っ直ぐ届いた。

 実結は思わず顔を顰めた。眉間が勝手に寄る。喉の奥が、ひりりとした。


 こんな匂い、嗅いだことがない。

 いや——嗅いだことがない、ではなかった。


 嗅ぐ機会が、自分の生きてきた時代にはなかったのだ、と。

 そのことを実結がようやく理解するのは、ずっと後になってからだった。


 停止液。

 フィルム現像の工程で使う、酢酸の溶液。

 暗室の記憶は、まず嗅覚から始まった。


     * * *


 目を開けた。

 真の闇、ではなかった。


 赤い。

 鴇色ときいろよりも深く、朱よりも暗い。

 暗室の安全灯が、空間全体を緋毛氈ひもうせんの色に染めていた。天井から吊るされたその光源は弱く、輪郭を暴くには足りなかった。でも、何かがそこにあることだけは教えてくれた。


 現像用のトレイ。

 洗濯バサミで吊るされた印画紙。

 壁に貼られた手書きの露光時間表。セロハンテープで貼り合わせた、誰かの几帳面さの痕跡。


 直接見たことはなかったが、イメージどおりの写真部の暗室だ、と実結は思った。

 体を起こすと、背中に板の感触があった。引き伸ばし機の台の側面に、もたれかかるようにして座っていたらしい。手のひらで床を確かめる。ひんやりとしたリノリウムの感触。それは確かにあった。


 でも——

 カメラが、ない。

 OM-3が、手の中から消えていた。


 胃が、冷たくなった。

 さっきまであの重みがあった。540グラムの、金属の重みが。それが、跡形もなく消えていた。両手を何度も握り直した。指の感触はある。でもカメラは、なかった。


     * * *


 壁を手で辿りながら、扉を探した。

 指の腹が木製の扉の表面を滑って、金属のノブに触れた。

 冷たい。


 回そうとした。

 ノブが、回らなかった——ではなく、ノブを掴めなかった。

 指でノブを包もうとするたびに、感触が消えた。力を込めるほど、手がすり抜けていく不思議な感覚があった。実結は三度、四度と試みたが、そのたびに結果は同じだった。


 深呼吸をした。

 落ち着け、と自分に言い聞かせた。

 でも息を吸うたびに、停止液の匂いが肺に入ってきた。

 もう一度、ノブに手を伸ばした。


 今度は、諦めずに前に進み続けた。体重をかけた。扉を押した。手の感触がないまま体が前のめりになった——そのまま、扉を、通過した。


 廊下に、つんのめって飛び出した。

 転びそうになって、床に手をつこうとした。でも床に触れた感触がなくて、そのまま倒れ込んだ。冷たいリノリウムが頬に触れた気がした——気がした、だけで、本当に触れているのかどうかはわからなかった。


     * * *


 ここは、夜の校舎だった。


 窓の外は藍墨茶あいすみちゃ色の空。月はなく、校庭の街灯が一つだけ、遠くに白い光の粒を落としていた。廊下には誰もいない。


 窓から外へ出ようとして、そこで止まった。

 ガラスに手を伸ばして、すり抜けそうになって、あわてて引いた。

 自分の手が、信用できなかった。


 廊下の端まで歩いた。


 壁に背中を預けようとしたら通り抜けそうになった。だから壁からほんの少しだけ離れて、座った。床に座っているつもりでも、自分がどこまで沈んでいるのかよくわからなかった。とにかく、それ以上落ちていかなかったから、そこにいた。


 スマートフォンを取り出した。

 これはなぜか消えずに残っている。

 画面が点いた。

 日付が表示された。

 実結は何度も画面を見て、それから窓の外の暗い空を見て、また画面を見た。


 1998年、3月。


 電波は、ない。

 アンテナのマークも、Wi-Fiのマークも、何もない。

 ただ画面だけが、暗い廊下の中で真っ白に発光していた。

 こんな場所で目立ちすぎると思って、伏せた。


 眠れるはずがないと思いながら、膝を抱えて目を閉じた。

 停止液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。


 どこにいるのかわからない。

 いつにいるのかは、わかった。

 でも、なぜここにいるのかが、まったくわからなかった。

この場面では、「タイムスリップした驚き」よりも先に、“触れられない”違和感を前面に出しています。


ノブを掴めない。

壁を信用できない。

床に触れた感覚すら曖昧。


つまり実結は、「過去へ来た」のではなく、世界との接続方法そのものが変質している。


また、暗室の停止液の匂いを「知らないのに知っている」と表現したのは、この物語が記憶だけではなく、感覚の継承を扱う話だからです。


写真は、光だけではなく、匂いや温度ごと定着していく。

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