第3話 透明な朝、届かない声
実結が見知らぬ世界に放り出されて、探索もそこそこに座り込んでいた学校と思しき建物の廊下の端。
気づいたときには、ちょうど顔のあたりに、朝日が射し込んでいて、夢の世界から意識を引き戻してくれた。
薄目をあけると、黄蘗色の朝光が、廊下の窓から長く伸びていた。
眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか意識が途切れ眠ってしまったようだった。体の感覚に違和感が残っており、不安からくる緊張で眠気は来ないと思っていたのに。
相変わらず周囲の床や壁、窓に至るまで、触れると硬い感触はなく、見た目と違いふわふわとした曖昧な感触のままだった。それでも時間は夜から朝へと進んでいた。
しばらくすると校舎の外が、賑やかになった。
話し声や靴音、衣服や鞄の擦れる音。
それらが複雑に絡みながら、重なりながら近づいてくる。
学生服姿にコートを着た、生徒たちが登校してくる。
実結は身支度を整えて、立ち上がり、長い廊下の中ほどまで進む。
最初、すれ違う生徒を避けるように立っていたのだけれど、徐々に人通りが増えてきて、それもままならなくなってくる。
ちょうど階段を上がってきた男子生徒がふたり、談笑しながら向かってきた。ぶつかりそうになり、実結は驚いて反射的に目を閉じた。
そのあとに訪れるであろう衝撃はなく、気が付くと男子生徒は通り過ぎていた。
しばらくその後ろ姿を眺めていた実結の耳に、女子生徒の話し声がきこえてきた。昨晩のテレビ番組の話で盛り上がる彼女たちは、実結に向かってまっすぐ向かってくる。
彼女らは廊下を横に並んでくるので、避けようにも、隙間がない。危ない、ぶつかると思ったとき、信じられないことが目の前で起きた。彼女たちは立ち止まることなく実結の立っている場所へ向かってきたかと思うと、まるで実結がそもそもそこに存在しないかのように、そのまま通り過ぎていった。
そう、通り抜けていったのだ。実結は彼女たちに触れることがなかったのだ。
ぶつかるような衝撃はなにもなく、相手の気配だけが通りすぎていく。その後も、すれ違う生徒、教員はことごとく、実結を認識することなく、傍らを存在に気づかずに通り過ぎていった。
まるで、そこに何もないかのように。存在がないかのように。
* * *
実結は試してみた。
近くで、窓を背に立っている生徒に声をかけた。
「あの……」
声をかけるが、その生徒からの反応はない。
もしかして、声が小さかったかと思い直し、今度は少し声を張って話しかける。
「あの、すみません……」
一瞬、女子生徒の視線が実結と捉えたかと思ったが、残念ながら
気のせいだったらしく、すぐに視線が逸れる。
無視ではない。その様子から、完全に私の存在が見えていないのだと、そのとき理解した。
無視されるときの透明感とは違う。
その違いは、実結には痛いほどわかっていた。
見えているのに無視される対象となったとき受ける感触と、そもそも存在が認知されていない今の状況は、全然違う。
メッセージアプリのグループトークで経験したのは、前者の孤独だったけれど、今の状態はまさに後者の孤独。
根本的な存在の透明さが招いた状況だった。
それから、始業までのしばしの間、廊下ですれ違う生徒に何度も声をかけ試したが、反応はない。教室の前で呼び止めてもだめ、座っている生徒の顔の前に手をかざして振っても、相変わらず反応はなかった。
こちらからの問いかけは、何も届かなかった。
* * *
朝のHRを終え、授業がはじまるころには、実結の心の大半をあきらめが支配していた。
実結は屋上に出た。
この学校は、屋上への階段、入り口には特に制約はなく、難なくたどり着いた。屋上へ入る扉を開けようとして、思いとどまる。
意を決して、扉にむかって突き進む、実結。
普通なら扉にぶつかって、背後に倒れ込むところが、そんなことは起きず、何の抵抗もなく、実結は屋上に立っていたのだった。
扉をすり抜ける自分に、もう驚かなくなってきた。
屋上の外周、縁には背の高いフェンスが張り巡らされていて、それに沿って、いくつかのベンチが並んでいた。
札幌の三月——実結はまだこの場所がどこか知らないが――は、まだ冬から抜け出せず、春はまだ遠く、朝の肌を刺すような乾いた空気が頬を刺激した。
東京の三月とはまるで違う、空気の冷たさ。
息がまだまだ白い。思わず体を竦める。
それでも降り注ぐ日差しは、それに反して暖かく、心地よかった。
実結はベンチのひとつに向かって歩き、そっと座ってみる。
不思議なことに、廊下の床とちがって、ベンチはふわふわした感触ではなく、硬い感触で実結の体を受け止めた。
訳はわからなかったが、普通に座れたことに、今まで感じたことのないくらいの安心感を得た。なぜかそれが嬉しかった。
昨晩の表示の異常さに、思わず伏せていたスマホの画面を、あらためて見てみることにした。
ロック画面を解除して、ステータス表示を確かめる。
相変わらず、電波はつかめていなかった。
誰にも繋がらない。
誰にも届かない。
既読もつかない。
通知もない。
2030年のすべてから、圏外に放りだされていた。
日頃のしがらみから、逃れ、解放されたのに、実結はベンチの上で膝を抱えながら、思う。
私は決して、あの状況から逃げ出したかったわけじゃなかった。
でも、今はそれに近い状態に置かれている。
ただ私は、カメラのシャッターを押しただけ。
それだけの行為、何気ないいつもの行為が、気づけば誰にもとどかない場所へ私を導いてしまった。透明なまま、1998年の世界、どこかの春の、どこかの学校の屋上。そこにあるベンチの上に。
しばらくして、校舎からさまざまな声が聞こえてきた。
遠く、なにかの授業の掛け声。
楽しそうな会話。
跳ねるような、笑い声。
全部、実結の心には響かず、届かなかった。
スマートフォンの画面を、もう一度点けた。
ロック画面のカレンダー表示は、1998年3月を示す。
電波はない。
2030年の実結を知っている人間が、このスマートフォンの画面の向こうに全員いる。
クラスメイトも、担任も、家族である母も。
でも、その誰にも私の声は届かない。
グループトークで既読無視による、存在の透明化に遭遇したときから、何が違うのだろうか。と実結は思った。
あの時も、今も、目の前の相手、画面の向こうの相手には、私の声は届かない。
反応がないだけで、画面の向こうには確かに人がいた。
今は、画面の向こうには、決してたどり着けないほどの時間の隔たりがある。
相手との距離が限りなく遠いという、その事実が堪らなく切なかった。
停止液の匂いは、まだ鼻の奥に微かに残っている。
朝から何時間経ったのか、わからなかった。
空の色が、白群色から、少しずつ薄縹に傾き変わる。
それだけが、時間の経過を静かに教えてくれた。




