第2話 停止液の記憶、扉の向こう
最初に気づいたのは、匂いだった。
目を開く前から、鼻孔をくすぐる匂い。
いや、訂正しよう。くすぐるというほどやさしいものではない。
酢に似た、でも酢よりもずっと刺々しい刺激が、鼻孔の奥へ押し寄せてくる。
実結は思わず顔をしかめた。
眉間が勝手により、しかめ面になる。
別に痛いわけではないけれど、喉の奥がひりりと感じた。
この匂いは、嗅いだことがない。
いや――嗅いだことがないわけではなかった。
匂いを嗅ぐ機会が著しく、自分の生きてきた時代にはなかったのではないか。
そのことを実結がようやく理解するのは、少し後になってからだった。
その匂いの元、発生源の名は――停止液。
フィルム現像と、印画紙現像の工程で使う、酢酸の溶液。
暗室の記憶は、まず嗅覚から始まった。
私は、まだ何が起きているのか、混乱していた。
ただ自分の部屋ではない、別の場所にいることだけは、自覚した。
* * *
目を薄く開け周囲を伺う。
最初は焦点が合わずはっきりと見えなかったが、真の暗闇ではなかった。
徐々に視界が明確になっていく。
赤い。
鴇色よりも深く、朱よりも暗い。
そこは――あとで写真の現像を行うための暗室だとわかったのだが――安全灯が、空間全体を照らしており、緋毛氈の色に染めていた。
天井から吊るされたその光源は通常の照明とは異なってはいたが、でも、何がそこにあるか見分けるには、徐々に慣れてきた視界には十分すぎるものだった。
現像用のトレイ。
洗濯バサミのようなもので吊るされたフィルムと印画紙。
焼き付けられた印画紙には、学生の姿が写っていた。
壁に貼られた、誰かの手書きの露光時間表。それは少し歴史を感じる古さがあって、セロハンテープで補修の跡がある。誰かの几帳面さの痕跡。
直接見たことはない――実結自身は暗室作業の経験はない。ただ母に教わって白黒フィルムの現像は、ダークバックと呼ばれる遮光バックの中でやっていた――が、ドラマや映画で見たことがある。まさにイメージ通りの写真部の暗室だと思った。
先ほどの刺激的な匂いは、たぶん停止液――普段、フィルムの現像には停止液を作らず、代わりに普通の水道水を使っていた――だったのだろう。あの強い刺激臭は一度嗅いだら忘れない。
体を起こすと、背中に平たい板の感触。
引き伸ばし機を載せた台座の側面に、もたれかかるように座っていたらしい。
手のひらで、床の状態を確かめた。
ひんやりとしたリノリウムの感触が、伝わってくる。
そこでふと、思い出す。
でも――先ほどまで手にしていたはずの、カメラがない。
OM-3が、手の中からすっぽりと消えていた。
急に胃のあたりが冷たくなったような違和感を覚えた。
先ほどまで、確かにあの重さは手の中にあった。
540グラムの、金属の重みが。
それがこのひと時の間に、跡形もなく消えてしまった。
両手の指を何度も握ったり離したりしてみる。何度も。何度も繰り返す。
指の感触は確かにそこにあった。
でもカメラは、そこにはなかった。
周りを見回してみても、やはりなかったのだった。
実結は、胃のあたりの違和感が、この状況からくる不安と恐れからだと心のどこかで感じていた。
* * *
大分、周囲の状況に目が慣れてきた。
ただ、明かりのせいか、距離感がいまいちはっきりしない。
震える手をなんとか動かし、壁の位置を手で確認しながら、扉を探す。勝手のわからぬ部屋の間取りが焦りを生む。
進んだ先の一方の壁には暗幕が下りていて、そこを探っていた手の指がなにか固い突起物に当たったような気がした。
平面に飛び出した冷たい感触。それは木製のドアについた、金属製のドアノブ。
実結は、はっきりと自覚していなかった。
そのノブに触れようと伸ばした手が、暗幕を脇に払わずとも、突き抜けていることに。
ドアが見つかったことで、意識はその不可思議な状況を捉えるどころか、外に出ることだけに向いていた。
ノブを回そうと手を伸ばす。
ノブが、回らなかった――正確には、掴めなかったのだ。
ノブのある位置を探っている指先は、確かに届いていた。
でも、手のひらでノブを包み込むように掴もうとするたびに、感触が消えた。掴もうと力を込めるほど、空しく宙をつかんでいるように、手がすり抜けていく不思議な感触があった。
実結は焦って、三度、四度と同じ動作を試みてみたが、そのたびに結果は同じ、ノブを指が捉えることはなかった。
実結は深呼吸をした。
落ち着けと、自分に言い聞かせる。
息を吸うたびに、あの刺激的な、停止液の匂いが鼻孔を満たす。
焦っていた自分の意識が、引き戻される。
もう一度、ノブに手をかけた。
今度は、掴めなくてもあきらめず、そのドアの位置へ体を寄せた。
さらに一歩踏み込んで、ドアにぶつかると思われた瞬間――ドアに体重がかかると思われたそのタイミングで、手にはノブも、ドア自体の感触も捉えられないままに、実結の体は扉をすり抜けていた。
実結は、廊下につんのめって飛び出した。
たたらを踏んで、転びそうになる体を支えようと、床に手を突こうとして、伸ばした手は、床を捉えることができず、そのまま倒れこんでしまう。
冷たいリノリウムの床が頬に触れた気がした――固い床に触れているはずなのに、密度の濃い気体のようなものに触れている感触だった。本当に触れているのかも怪しい状態にあった。
もう、何が起きているのか、さっぱりわからず、不安で押しつぶされそうになった。
* * *
床に伏せた状態のまま、時が流れる。
実結は、少しずつ周囲の状況が呑み込めてきた。
ここは、夜の校舎だった。
見覚えはまったくない、知らない学校の建物の中。
窓の外は、藍墨茶色の空。
月はなく、校庭のほうにある街路灯がひとつだけ、遠くに白い光の幕を広げていた。
自分がいる廊下には、もう誰もいなかった。
窓を開けようと、立ち上がって近づいた。
ガラス窓のクレセント錠を回そうと手を伸ばしたが、指は宙をさまよい、さらにはガラスの向こうに、すり抜けそうになって、慌てて手を引いた。
自分の手が、まるで信用できなかった。
とぼとぼと、廊下を進み、端まで歩いてきた。
疲れて、壁に背中を預けしゃがみこもうとすると、固い感触はなく、壁に沈み込むような、壁の向こうに体が通り抜けそうに感じて、泣きそうになる。
しかたなく、壁から少し体を離して座り込む。
けれど床も似たような感触で、自分が床面に沈み込んでいるのか、そもそも支えられているのかも、よくわからなかった。
とにかく、それ以上沈まず、落ちないとわかって、そこにいた。
上着のポケットから、スマートフォンを取り出す。
スマホは、しっかりと掴むことができて、ほっとする。
カメラは消えたけど、これはなぜか消えずに残っていた。
画面が点いた。
ロック画面の表示に、日付が表示される。
実結はその表示を何度も瞬きしながら、見つめていた。
そして、スマホの画面から窓の外に視線を移し、また画面に戻る。
1998年3月。
画面上端にあるステータス表示。
まず、電波がない状態だった。
電波強度を示すアンテナのアイコンや、WiFiの電波強度のアイコンは、表示がなかった。ある場所に、何もなかった。
ただ、いつものように画面だけが白く淡い光を、実結の顔に向けていた。
暗い廊下で一点の白い灯りは、ひどく目立つ。実結は慌てて、画面を伏せた。
なれない環境で、不安と恐怖による緊張からか、眠れるはずがないと思いながら、それでも疲れも感じている実結は廊下の隅で、膝を抱えて目を閉じた。
停止液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
どこにいるのかわからない。
いつにいるのか理解できない。
なぜ、ここにいるのかが、まったくわからなかった。
これからどうなるのか、不安でしかたなかった。




