第2話 ブラックアウト、三十二秒
壊れたのは、カメラだったのか。
それとも、実結の見ていた現実だったのか。
機械式カメラは、本来なら確実に動く。
電池がなくても、回路がなくても、指先の力と機械の噛み合いだけで、世界を切り取る。
だからこそ、「止まるはずのないもの」が止まった瞬間には、理由ではなく異物感だけが残る。
この話は、麻倉実結が“向こう側”へ触れてしまった、最初の三十二秒の記録である。
音が、止まった。
正確には、シャッターが下りた後に続くはずの音が、しなかった。
OM-3のミラーが元の位置に戻る、あの重厚な感触。それが、なかった。
実結は反射的にカメラを顔から離した。レンズの前に手をかざしてみる。何も変わらない。もう一度ファインダーに目を当てる。やはり、黒い。ミラーが上がったまま戻ってこないのだとわかった。
メカニカルシャッターが、止まっている。
電池のいらないカメラが、止まっている。
理由が、わからなかった。
シャッタースピードリングをもう一度指でなぞった。バルブの刻みを確かめたが、そこではなかった。ダイヤルはきちんと60分の1の位置に、ちゃんと止まっていた。巻き上げも、されていた。何も問題がないはずなのに、ミラーだけが上がったまま、降りてこなかった。
故障しちゃった......?
指先が、かすかに震えていた。
指の震えに自分で気づいたのは、少し後だった。
* * *
部屋の空気が、変わっていた。
さっきまで感じていた鈍色の重さが、すうっと引いていくような感覚があった。
代わりに——
全身の皮膚が、何か巨大なものの手前に立った時のような感覚になった。
鳥肌、とは少し違った。もっと静かな、でもはっきりとした変化だった。
毛穴が一つひとつ、別々に開いていくような感覚。
ファインダーは黒く、暗く沈んでいるのに、視界の端から奇妙な光が入ってきた。
桃花色だと思った。
薄く、やわらかく、桜の花びらの内側のような色だった。春の午後の光とは違う。もっと内側から滲み出てくるような、光源のない光だった。
まるで、現像液の中で像が浮かび上がってくる時のような——
時間が、伸びた。
一瞬のはずのブラックアウトが、どこまでも続いた。
自分の輪郭が、溶けていく感覚があった。手がどこにあるかわからない。足の感覚がない。ベッドの上にいるはずなのに、どこにも触れていない感覚があった。
OM-3だけが、掌の中にある気がした。
重みが、まだそこにあった。金属の、540グラムの重みが。その重みだけが、自分がまだ存在していることの証拠だった。
でも次の瞬間、その重みも、なくなった。
カメラも、なかった。
何も、なかった。
* * *
音だけが、あった。
低く、持続する音だった。
何かが化学変化を起こす時のような、微かに泡立つような音。現像液に印画紙を沈めた時の、あの音に似ていた。でも実結はまだ、その音を知らなかった。知らないはずの音を、体の奥の、言葉になる前の場所が、知っていた。
次に匂いが鼻孔に届く。
鼻の奥を刺す、酸っぱいような鋭い刺激。 胃の奥がきゅっと縮む。知らないはずなのに、体が、細胞が、この匂いを知っている。
記憶は空白のまま――にもかかわらず、確かな手応えだけがそこに刻まれていた。
光が、ない。
実結は暗闇の中で、まだ自分が存在しているのか確かめようとした。
手を握ろうとした。指が動く感覚はあった。でも、何かに触れた感触は、ない。声を出そうとした。喉が動く感覚はあった。でも、音が出たかどうか、わからなかった。
自分が、どこにいるのかわからなかった。
ただ、意識だけがあった。
* * *
三十二秒が、経過した。
その秒数を、誰も数えていなかった。
実結自身も、数えていなかった。
でも後になって、あれは三十二秒だったのだと、実結は知ることになる。
OM-3のフィルムカウンターが、32で止まっていたのと、同じ数字で。
この場面で重要なのは、超常現象そのものではありません。
実結はこの時点で、まだ何も理解していない。
ただ「世界の手触りが変わった」という感覚だけを受け取っています。
OM-3の重量感、機械音、シャッターの節度。
それら現実的で具体的な感触を積み重ねることで、逆に“現実では説明できない歪み”が際立つ構造になっています。
そして「32」という数字は、故障ではなく“停止した時間”として、ここから物語全体に影を落としていきます。




