第1話 鈍色の午後
2030年、三月の終わり。
東京の春は、いつも嘘くさい。
桜がほころびかけた街路樹を、アルミサッシの窓越しに眺めながら、朝倉実結はベッドの上で膝を抱えていた。
スマートフォンは、伏せてある。
画面を上にしておくと、通知のたびに胃のあたりが鉛のように重くなるとわかっていたから。
三日前から、ずっとそうだった。
クラスのグループトークが、静かに、でも確実に、実結を外側に押し出そうとしていた。
私のメッセージには既読がついても、反応がない。既読スルー。
誰かが何かを明確に言ったわけではない。
ただ、気づけば話題の外にいて、自分だけタグ付けされていない写真があって、「みんな」の中に自分だけいなかった。
説明のつかない透明さが、画面の向こうから静かに沁み出ていた。
部屋の空気は、何時にもまして鈍色だと思った。
灰色でも白色でもない、感情を持て余したような色。
光が差し込んでいるのに、どこも明るくならない。
天井の隅から壁や床に至るまで、部屋の中にはやわらかい春の午後の日差しが届いているのに、実結のいる場所だけ、露出アンダーで撮った写真みたいに、薄暗く落ち込んでいた。
カーテンの隙間から差し込む光が、ほこりの粒をを浮かび上がらせる。
実結はその様子をぼんやり眺めていた。
ほこりは確かにそこにあって、光に照らされている。
見えている。
存在している。
そう、私自身も存在している。
確かに存在している。自室のベッドの上には。
でも、残念ながらスマートフォンの画面の向こうに、春の日差しは届かない。
光の届かない電子の世界では自分は透明なまま。
さらに、学校にいても同じ。
実結は存在が透明だった。
視線が、机の上に向く。
そこには、使い古したカメラが二台、並んでいた。
一台は、母から譲られたOM40 PROGRAMというフィルムカメラだった。
「どうせ部屋の肥やしとして腐らせるくらいなら」と、言葉どおり放ってよこされたカメラ。革のケースは使い込まれて飴色に変わっていた。カメラの形状にぴったりと沿った、速写ケースと呼ばれるものだ。底面側で上面カバーを止めているスナップボタンをパチンと外すと、かすかに、この機械特有の匂いがした気がした。
母が若いころにスナップ撮影用として使っていたサブ機だと聞いていた。メイン機での撮影の傍ら、気軽に持ち出せる一台として。
ペンタ部の「OLYMPUS」のロゴ、軍艦部その右端に機種名のロゴがあるが、その位置にほんの小さな凹み傷がある。実結はいつも構えるときに指でなぞる。傷の縁が、指の腹のやわらかい場所に馴染む感触。それを確かめてシャッターボタンに指を移し、置く。この傷が誰かの不注意が刻んだ傷だとは、まだ知らない。
実結はときどきこのカメラのファインダーを覗いた。
四角く切り取られた世界の中では、余計なものが視界に入らなかった。グループトークも、タグのない写真も、全部フレームの外に追い出せた。
ファインダーを覗いているときだけ、私は世界と対話ができる。自分の好きなように。
そして、もう一台のカメラ。
それは昨日、母が押し入れの奥から出してきたものだった。
「おじいちゃんが使ってたやつ。ずっと大事にしまってたんだけど、実結が写真をやるなら、一緒に持っておいて」
それだけ告げてカメラを渡すと、母はまたいつもの顔に戻る。電話で仕事の話に戻った。
OLYMPUS OM-3。
マットブラックの真鍮のボディが、机の上で静かに存在を示していた。廉価機種のOM40と比べ、プロ向け1桁機種のこのカメラは、ひとまわり大きくて、手に持つと、ずっしりとした金属の重みが伝わった。540グラム。金属の、密度のある重さだった。
あちこちに使い込まれた傷がある。金属を折り曲げた角には、塗装がスレて黄銅色の地金がでていた。それも長年大切に使われてきた丁寧に手入れされている傷だった。大事にされていたことが、その傷の質からもわかる。
巻き上げレバー軸の隣、軍艦部の上面の右端に小さなフィルムカウンターの表示窓がある。もちろんアナログの。
カウンターの数値は、「32」を指したまま、動かなかった。
何度巻き上げても、そこから先へ進もうとしなかった。
修理に出せば直るはずだ。と実結は思う。でも、祖父も母も直さなかった。
なぜかは、誰も教えてくれなかったから、分からずじまい。
会ったことのない祖父の名前を、実結は母から何度か聞いたことがあった。北海道の旭川(醤油ラーメンと、あの有名な動物園があるというくらいしか知らないが)出身で、山岳写真家だった人。喫茶店をやっていた人。実結が生まれる前に亡くなった人。
その祖父が、このカメラで山を撮っていた。
実結は、OM40を机に置き、かわりにOM-3を手に取った。
ずっしりとした重みが、改めて手に落ちてくる。
OM40の樹脂やゴム素材を多用した軽さとは、全然違った。このカメラの外装は金属でできている。駆動部分は露出計関連以外は機械駆動だった。電池がなくても動く。このメーカー1桁番台機種の特徴であるレンズマウント部と同軸にある、シャッターダイヤルリング。このマウントの付け根にあるこのリングに指を当てて回すと、はっきりとしたクリック感とともに、選んだシャッタースピードに確実に止まる確かさがあった。ダイヤルを回すたびに、カチ、カチと静かな手応えがあった。
実結は、カメラを引いてのぞき込み、シャッターダイヤルリングを確かめた。
Bの刻み位置を越えて、1秒の位置にあった。バルブになっていないことを確かめてから、60分の1秒。さらにもう少し回した。125分の1秒。街中で手持ちでスナップ撮影するとき、セットする速度。
巻き上げレバーに指をかけ、親指をグイっと右に振る。
滑らかにレバーが動く。
抵抗なく、でも確かな手応えとともに、レバーが動く。
ジャッとシャッター幕、布が走る小さな音がして、シャッターがチャージされる。
ファインダーを覗いた。
明るかった。視野が広かった。窓を覗いているような、圧倒的な明るさと、高い視野率があった。OM40に比べ、透過光量や透明感、ピントの山の掴みやすさが、明確に違う。
覗いた瞬間に、世界がきちんと整理される感覚がある。
まるで、散らかった部屋に誰かが来て、一瞬で片付けてくれたあとのような感覚。
レンズの向こうに、薄日の差し込む窓が見えた。縹色と白鼠の境界が、春の空に曖昧に溶けていた。
ピントリングに触れてもいないのに、なぜか遠景が柔らかくぼけて、窓枠だけが輪郭を持っていた。
OM-3は、メカニカルシャッターだ。
電池がなくても動く。それが、1桁の奇数番台機種の特徴。
それが、このカメラが山岳写真家に愛された理由のひとつだと、実結はいつかどこかで読んだ気がする。
過酷な環境でも、機械式のカメラは動き続ける。
電子回路に頼らない。バッテリー切れを気にせず、指先の感触だけですべてを操る。そういうカメラだった。
だから、シャッターは切れるはずだった。
別に、撮るつもりはなかった。
ただなんとなく、シャッターボタンに触れた。
人差し指の第一関節が、金属の冷たさに触れて――カクン、と軽くミラーが跳ね上がるショックを感じる。
乾いた、でもどこか重さのある音がした。
OM40の軽い音や衝撃とは違う、でも心地よい静かなショック。
金属ダイキャストボディが、ミラー動作の衝撃をしっかりと受け止める。
機械式シャッター特有のシャキッとした精密な作動音が続くはずだった。でも、なかった。続かなかった。
ミラーアップした状態のまま、戻ってこない。
ファインダーが暗く沈んでいる。
実結は反射的に、ファインダーから顔を離した。
レンズにはもちろん、キャップはついていない。だってさっきまでちゃんとファインダーに像を結んでいたのだ。
もう一度ファインダーを覗いて、レンズの前に手をかざしてみる。何も変化がない。やはり黒い世界のまま。
メカニカルシャッターなのに、電池残量は関係ないのに。
なぜ?
シャッターダイヤルリングをもう一度確かめた。
バルブの位置にはなっていない。先ほどセットした125分の1秒の位置のまま、ちゃんと設定されている。巻き上げも、されている。確かに先刻は、シャッターチャージの感触があった。
何も問題がないはずなのに、ミラーが上がった状態のまま、降りてこない。この機種には手動でミラーアップする機構はない。
シャッターボタンに置いていた、指先がかすかに震えていた。
部屋の空気が変わっていた。
さきほどまで感じていた鈍色の重さが、すうっと引いていくような感覚。代わりに、全身の皮膚が、何か巨大なものの手前に放り出されたときのような差すような刺激を受けた感触があった。
ファインダーの視界は黒いままなのに、視界の端からは奇妙な光が射し込んでくる。それは桃花色だと思った。薄く、やわらかく、桜の花びらの内側のような――
時間が、引き伸ばされる。
シャッターを切るときの一瞬のはずのブラックアウトは、どこまでも続いていた。
自分の輪郭が周囲の世界に溶けていく感覚。
手がどこにあるかがわからない。
足の感覚がない。
掌の中のOM-3だけが――いや、もうカメラの重さも、感じなくなった。
心の中は、静かな恐怖に支配され、声も出ない。
心臓の鼓動や呼吸音まで闇に吸い込まれて溶けている。
音だけがあった。
低く、持続する、何かが化学変化をおこすときのような、微かに泡立つような音。
そして、匂い。
鼻の奥を刺す、酸っぱいような鋭い刺激。
あまり記憶にない匂いなのに、どこか呼び覚まされるような感覚があった。体の奥の、言葉になる前の段階で、その匂いを知っていた。なぜだろうと一瞬、疑問がよぎる。
光がない。
暗闇の中で実結は、まだ自分が存在しているのか確かめようと手を握ろうとした。今度は指が動く感覚があった。でも、何かに触れている感触は、ない。
三十二秒が経過した。
その秒数を、誰も数えていなかったけれど。
実結を取り巻く世界が静止したような状況にあっても、時間だけは知らずと進んでいた。




