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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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第10話 赤い光の中の現像

暗室には、不思議な時間が流れています。

光を遮断した場所で、人はむしろ「見たいもの」と向き合わされる。

実結にとってこの朝は、写真ではなく、自分自身の輪郭が少しだけ現れ始める時間でした。

 翌朝、実結が屋上への階段を上がると、

 プレハブ小屋の扉から細く光が漏れていた。


 暗室の安全灯ではなかった。

 もっと白い、作業灯の光。

 扉の隙間から漏れる光が、三月の朝の冷気の中で薄く筋を引いていた。


 ノックをしようとして、躊躇う。

 中から音がしていた。


 かちり、という金属音。

 フィルムケースを開ける音だとわかった。

 それから、巻き上げる音。

 暗袋の中で手探りでフィルムをリールに装填する、あの集中した沈黙の気配。

 実結には経験がなかったけれど、なぜかそれがわかった。

 体の奥の、言葉になる前の場所が知っていた。

 停止液の匂いを知っていたように。


 ノックをした。


「開いてるよ」と声がした。

 扉を開けると、佳奈が現像タンクを手に持って立っていた。

 今日は制服ではなく、くたびれたトレーナーにジーンズという格好だった。

 首にOM-4Tiを下げていた。


「来たじゃん。いらっしゃい。入って入って」と佳奈は言った。

 昨日と同じ、迷いのない声で。

「お邪魔します」と実結は言った。

「ちょうどよかった。今から現像するとこ。見てく?」


 小屋の奥が暗室になっていた。

 引き戸を一枚隔てた向こうに、赤い光の世界があった。

 安全灯が一つ、天井から下がっていた。

 ヒガコーの写真部室にあったものより少し古い型で、

 光がやや赤みの強い色だった。


 その光の下に、現像用のトレイが三つ並んでいた。

 現像液、停止液、定着液。

 実結の鼻が、それを捉えた。


 停止液の匂い。


 1998年に来てはじめて嗅いだ匂い。

 暗室の床で目が覚めた時に最初に感じた、あの刺々しい刺激。


 今は怖くなかった。

 怖くなかったけれど、体の奥の何かが、その匂いに反応した。

 この匂いが自分をここへ連れてきたのだと、細胞の単位で覚えているように。


「手伝える?」と佳奈は聞いた。

「何もわからないけど」と実結は正直に言った。

「じゃあ見ててよ。そっちに椅子あるから」


 実結は隅の丸椅子を引いて座った。

 佳奈は現像タンクを持ち上げて、攪拌を始めた。

 タンクを一定のリズムで傾ける動作。

 集中しているのに、どこかリラックスしている。

 体に馴染んだ動作だとわかった。


「何を撮ったフィルムなんですか」と実結は聞いた。

「昨日の分」と佳奈は言った。「昨日の朝、駅前で撮ったやつ。始発前のホーム」

「始発前? 何時に起きたんですか」

「四時......」

 実結は言葉を失った。

「始発前の光が好きで」と佳奈は攪拌を続けながら言った。「誰もいなくて、ホームに光だけある。あの時間の光って、一日の中で一番嘘がない気がして」


 健三と同じことを言う、と実結は思った。

 嘘のない光。フィルターのない光。本当の色が見える光。

 血だと思った。言葉ではなくて、写真への向き合い方が、親から子へ流れている。


「健三さんも、そういうこと言ってました」

「お父さん?」と佳奈が少し笑った。「山の人だから。光への執着が山屋なんだよね。私も完全にその影響受けてる。お父さんの山岳写真集、小さい頃から見てたから」


 攪拌が続いた。規則的な音が、小さな暗室に満ちた。

「実結さんはさ」と佳奈は言った。タンクを傾けながら、実結の方へ目を向けた。「東京で、何か撮ってた? OM-40使ってるって言ってたじゃん」

「あんまり、ちゃんとは撮れてなかったかな」

「なんで?」

 実結は少し間を置いた。

「なんか、撮りたいものが、よくわからなくて」

「ふーん」と佳奈は言った。否定も肯定もしなかった。ただ受け取った。「私はずっと撮りたいものだらけで困ってる側だから、それはわかんないな」

「羨ましいです」と実結は言った。

「そう?」

「そう」


 佳奈はタンクを置いて、停止液のトレイの前に立った。

 手際よく作業を進めながら、独り言のように続けた。


「でもさ、撮りたいものがわからないって、見えてないだけで、見たいものはあるんじゃないの」

 実結は答えなかった。

「見たいけど、怖くて見れないとか。見てもいいかわからないとか」


 佳奈は実結の方を見なかった。

 作業の手を止めなかった。

 ただ言葉だけが、緋色の光の中に落ちた。

 実結は膝の上で手を握った。

 見たいもの。見てもいいか、わからないもの。


 現像が終わると、佳奈はフィルムをタンクから取り出して、水洗いを始めた。


「乾かしてから焼くから、今日はここまで」と佳奈は言って、引き戸を開けた。

 作業灯の白い光が戻ってきた。佳奈がフィルムをハンガーに吊るしながら、実結に振り向いた。

「OM-4Ti、触ってみる?」

「いいんですか」

「さっき言ったじゃん、触っていいって」


 佳奈はOM-4Tiを首から外して、実結に渡した。

 ずっしりと重かった。金属の冷たさが掌に伝わった。この重さを、佳奈は毎日持ち歩いている。


「測光がすごくて」と佳奈は話し始めた。急に饒舌になった。カメラの話になると止まらないのだと、実結はすぐに悟った。「スポット測光で八点同時に測れるんだよね。ハイライトとシャドウを自分でコントロールできて——実結さん、カメラわかる?」

「少し」

「どのくらい?」

「オリンパスのフィルムカメラなら、触ったことある......」

 佳奈の目が、また一段階大きくなった。

「じゃあフィルムはわかるじゃん! いいよね、フィルム。デジタルとか絶対流行らないと思うんだけど、私だけかな、そう思うの」


 実結は笑いそうになるのを、辛うじて堪えた。

 OM-4Tiを佳奈に返した。

 佳奈はそれを受け取って、慣れた手つきでストラップに通した。

 自分の体の一部のように、カメラを首から下げた。


 窓の外を見た。

 東札幌の朝が、広がっていた。


「実結さんはさ」と佳奈は振り向いた。朝の光が、佳奈の顔を正面から照らした。フィルターのない、残酷なくらい正直な光。「しばらくここにいるの?」

「......たぶん」

「じゃあ、せっかくだから写真部に遊びに来なよ」

「え?」

「うちの写真部、人足りてないから。幽霊部員でもいいし。ていうか幽霊でも部員は部員だから」と佳奈はあっさり言った。「五味先生も文句言えないし」


 幽霊部員。

 その言葉が、妙なリアリティを持って実結に刺さった。昨日まで、文字通り幽霊だったから。

「……考えておきます」と実結は言った。

「考えてる間に春休み終わるよ」と佳奈はあっさり言った。「明日、今度は写真焼くんで、また暗室使うから。来たかったら来ていいよ」


 それだけ言って、佳奈はOM-4Tiのファインダーを覗いた。

 窓の外に向けた。

 シャッターを切る音がした。


     * * *


 屋上を後にして、実結は客間に戻った。

 布団の上に座って、膝を抱えた。


 スマートフォンの画面を点けた。

 電波はない。

 通知はない。

 バッテリーは、32%のままだった。


 でも今は、それが怖くなかった。


 朝の光の中で佳奈が笑った顔が、まだ瞼の裏にあった。

 声が耳に残っていた。


 母は、こんなに太陽みたいな人だったのか。

 いつから、光が変わったのか。

 でも、別人だと思ってる実結にはわからなかった。

 

 でも今は、わからなくていいと思った。

 ただ、明日、暗室に行こうと思った。

 それだけを決めた。


 窓の外の東札幌の朝が、薄青鈍うすあおにびから少しずつ明るさを増していた。雲の切れ間から、春に向かう光が、細く差し込んできた。

佳奈は、止まっていた実結を強引に前へ引っ張るタイプの人間です。

けれどその無遠慮さは、相手を否定するためではなく、「見たいなら見ればいいじゃん」と背中を押す種類の明るさでした。

停止液の匂いの先で、実結が何を焼き付けていくのか。ここから少しずつ始まっていきます。

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