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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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第11話 焼き付け

実結は佳奈と暗室で写真を焼きながら、「見えなかったものが浮かび上がる」感覚に、自分自身の心を重ね始める。

佳奈の「ちゃんと見えてる」という言葉と、1998年の家族の温かな食卓が、実結に“ここにいてもいい”という実感を少しずつ与えていく。

そして実結は初めて、自分の意思でカメラを構え、夕暮れの山へ向けてシャッターを切った。

 引き戸を閉めると、世界が緋色になった。


 安全灯が、小屋の奥の暗室を満たしていた。

 昼間の作業灯が消えて、この赤い光だけが残ると、空間の質が変わった。

 音が丸くなる感じがした。

 外の世界の音——商店街の車の音、遠くの踏切、誰かの話し声——が、引き戸一枚隔てた向こうに行ってしまう感じ。


「目が慣れるまで待って」と佳奈は言った。


 実結は立ったまま、暗室の中を見渡した。

 昨日、五味先生の話を聞いたあの暗室で目が覚めた時とは違った。

 あの時は恐怖の中で見ていた。

 今は、隣に佳奈がいた。

 同じ緋色でも、温度が違った。


「慣れた?」

「うん」

「じゃあ始めるねぇ」


 佳奈が引き伸ばし機のスイッチを入れた。

 レンズから白い光が下りてきて、台の上を照らした。

 佳奈はフィルムのコマをネガキャリアにセットして、ピントを合わせた。

 慣れた手つきで、迷いなく。

 何度もやってきた動作の流れが、暗室の中に静かに満ちた。


「今日の一枚目、これにする」と佳奈は言った。

 ネガをランプに透かして実結に見せた。オレンジがかった小さなフィルムに、白と黒が反転した景色があった。線路。レール。朝靄。

「さっき健三さんが見てたやつ」

「そう。お父さんが見てたから、もう一回ちゃんと焼こうと思って」


 スイッチが入った。

 引き伸ばし機のランプが点いて、印画紙に光が当たった。

 タイマーが秒を刻んだ。

 実結はその光を見ていた。

 印画紙の上に降り注ぐ白い光。

 今この瞬間、像が焼き付けられている。

 目には見えない、でも確実に起きている変化。


 カチン、とタイマーが切れた。

 佳奈が印画紙を現像液のトレイに滑り込ませた。


「見ててね」と佳奈が言った。

 何も、なかった。

 白い紙が、現像液の中に沈んでいた。

 でも。

 端から、かすかに、濃さが滲み始めた。

「あ......」と実結は声を出した。

「出てくるよ」と佳奈は静かに言った。


 像が、浮かんできた。

 線路が、現れた。レールの反射が、白く輝き始めた。靄が、霧白きりしろ色に広がった。

 線路の向こうに、朝の光が滲んだ。

 最初は輪郭だけで、それから濃淡が生まれて、それから質感が現れた。

 白い紙の上に、朝の苗穂駅が、浮かび上がってきた。


 実結は息を詰めて、それを見ていた。

 何もなかったところから、何かが現れてくる。

 現像液の中で、見えなかったものが見えるようになる。

 その過程が、実結には、何か別のことのように見えた。


「止め時が大事なんだよ」と佳奈が印画紙を停止液に移しながら言った。「現像液に入れすぎると黒くなりすぎる。早すぎると薄い。今がちょうどいいと思ったとこで止める」

「どうやってわかるの、今がちょうどいいって」

「わかんない、最初は」と佳奈はあっさり言った。「何枚も失敗して、覚えるしかない。でも何枚も焼いてると、なんとなく見えてくる。この濃さならあと三秒、とか」

「感覚で」

「感覚で、でも根拠がある感覚で」


 停止液の刺激臭が、暗室に広がった。

 実結はその匂いを肺に受け入れた。

 怯えはなかった。

 ただ、ここにいるとの実感が心に沁みた。


     * * *


「次は実結が焼いてみて」と佳奈は言った。

「私が?」

「そのために残ってるんじゃないの」


 有無を言わさない声だった。

 実結は引き戸を閉めて、暗室に戻った。

 佳奈がネガを替えた。

 モノクロのフィルム。コマを選んで、実結の前に引き伸ばし機を開けた。


「何が写ってるの?」

「見てからのお楽しみ。露光時間は十二秒でいいと思う。タイマーここ。印画紙はここに置く。やってみて」


 実結はゆっくり恐々と印画紙を取り出した。

 光に当ててはいけないと知っていた。

 緋色の安全灯だけが当たる角度で、台の上に置いた。


 タイマーを十二秒に合わせた。

 スイッチを入れた。

 光が、下りてきた。

 十二秒を、実結は数えた。

 心の中で。


 一、二、三。

 光が印画紙の上に降り注いでいる。

 今、像が焼き付けられている。


 四、五、六。

 取り消せない。一度光を当てたら、二度と元には戻せない。


 七、八、九。

 五味先生が言った言葉が、実結の中で響いた。


 十、十一、十二。

 カチン。

 ランプが消えた。


 実結は印画紙を現像液に沈めた。

 待った。


 人が、現れた。

 二人の人が、現れた。


 暗室の外に立っている、後ろ姿の二人。

 光の中に立っている。

 一人は佳奈だとすぐにわかった。

 もう一人は——沙織か、美穂か、実結には判断できなかった。

 二人の肩が触れるくらいに近くて、笑っているのか話しているのか、顔は見えなかった。でも、二人がそこにいることの確かさが、写真の中に満ちていた。


「誰が撮ったの、これ」と実結は聞いた。

「野村」と佳奈は言った。「四月からうちに来る後輩。中学の時から写真撮ってるやつでさ、ペンタのMZ-3使ってるんだけど。現像だけ頼まれて——せっかくだから、一枚借りて焼いてみようと思って」

「すごく、いい写真」

「でしょ」と佳奈はトレイを覗き込んだ。「野村、なんか変な光の拾い方するんだよね。人撮ってるのに、光を撮ってる感じがする」


 実結は濃さを見ていた。

 ちょうどいい、と思った。

 思った瞬間に、印画紙を停止液に移した。

 佳奈が実結を見た。


「早かった」

「早すぎた?」

 佳奈は印画紙を定着液に移しながら、少し考えた。

「見てみないとわからない」

 水洗いを終えた印画紙を、作業灯の下で確かめた。

 薄くはなかった。黒くもなかった。

「悪くない」と佳奈は言った。「ちゃんと見えてる」


 その言葉が、写真の話ではないように聞こえた。

 実結自身がこの1998年に、ちゃんと見えている、という話のように。


     * * *


 夕方になった。

 佳奈は焼いた写真を乾燥させながら、OM-40を手に取った。

 メイン機のOM-4Tiではなく、サブ機の方を。首に下げて、小屋の窓の外へレンズを向けた。


「夕方の光、好きでさ」と佳奈は言った。

「貸して」と実結は言った。


 口から出た後で、自分でも驚いた。

 佳奈が振り向いた。意外そうでもなく、不思議そうでもなく、ただ「どうぞ」という顔をして、OM-40を実結に渡した。

 実結は受け取った。

 手に馴染んだ。

 軍艦部の「OLYMPUS」のロゴに、指が触れた。

 凹み傷は、まだなかったが、このとき実結はそのことに気づいていない。


 ファインダーを覗いた。

 窓の外が、四角く切り取られた。

 夕暮れの東札幌。金茶きんちゃ色の屋根。薄紅うすくれないの空。遠くに見える山の稜線が、夕光を受けて紫紺しこん色に沈んでいた。


 実結は焦点を、山の稜線に決めた。

 息を止めた。

 人差し指が、シャッターボタンに触れた。

 シャッター音が、小屋の中に落ちた。


「どこ撮ったの?」

「山」と実結は言った。

「山か」と佳奈は繰り返した。それから少し笑った。「お父さんみたい」


     * * *


 夕食は、一階の喫茶小鳥遊で食べた。


 健三が鍋を持って出てきた。豚汁の匂いがした。

「いただきます」と四人で言った。


 佳奈が豚汁を一口飲んで「うまい」と言った。健三が「当たり前だ」と言った。紀子が「人参もう少し柔らかくてもよかったかな」と言った。健三が「余計なことを言うな」と言った。佳奈が笑った。


 実結は豚汁を飲んだ。

 温かかった。根菜の甘さと味噌の塩気が、体の芯まで届いた。


 2030年では、もうない食卓だった。

 健三の声。紀子の笑い方。佳奈の笑い声。三人が同じテーブルについている、この当たり前の光景。実結が知っている2030年には、もうない当たり前。


 胸の奥に、鴇色ときいろの痛みが滲んだ。

 でも今は、その痛みを追い払いたいとは思わなかった。

 痛みを感じるのは、見えているからだと思った。

 ちゃんとここにいるから、ちゃんと見えて、だから痛い。


「おかわりあるよ」と紀子が言った。

「いただきます」と実結は言った。

 琥珀こはく色の光の下で、東札幌の夜が深まっていった。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 暗室で像が浮かび上がるように、実結もまた1998年の中で少しずつ「ここにいる自分」を見つけ始めています。

 そして今回の最後のシャッターは、実結が初めて自分の意思で“撮りたいもの”へ向けた一枚でした。

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