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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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12/41

第12話 喫茶小鳥遊の時間

 春休みの時間は、学校のある日より少しだけ輪郭が曖昧です。

 通知のない1998年で、実結は少しずつ「光」と「人」の中に時間を見つけ始めます。

 今回は、雪が消える前の東札幌と、写真を撮りたいと思い始めた実結の話です。

 春休みというのは、時間の形が違う。

 

 学校のある日は時間に輪郭がある。

 何時に起きて、何時に登校して、何時間目に何があって。

 でも春休みの時間は輪郭がなくて、朝から夜まで、

 ひとつながりの塊として流れていく。


 1998年の春休みは、その感触がより濃かった。

 スマートフォンに通知は来ない。

 グループトークは動かない。

 時刻を確かめる以外に画面を見る理由がなかった。


 だから実結は、時間を体で感じるようになっていた。

 光の角度で朝か昼かを知って、空の色で夕方を知った。

 喫茶小鳥遊に来て、四日が経っていた。


     * * *


 紀子がカウンターから顔を出した。


「実結ちゃん、起きてる?」


 一階の喫茶小鳥遊は、開店前の時間が一番好きだと実結は思うようになっていた。


「手伝ってもいいですか」と実結が聞いたのは、来て三日目のことだった。

「助かるわ」と紀子は言って、エプロンを一枚渡した。


 それから毎朝、実結は開店前の準備を手伝うようになっていた。


 昼前になって、沙織と美穂が来た。

 ドアベルが鳴って、二人が雪を踏んで入ってきた。


「寒い!」と沙織が言いながらコートを脱いだ。「三月の末でまだ雪とか、ありえないしょ?」

「毎年のことじゃん」と美穂が言いながらPHSを取り出した。

「毎年のことでもありえない」

「佳奈さんは?」と実結は聞いた。

「まだ寝てるって。昨日の夜遅くまで印画紙焼いてたって」

「あの子、のめり込むと止まらないから」と美穂がPHSを操作しながら言った。

 実結はホットコーヒーを二つ出した。紀子に教わった手順で。

「実結、もうお店の人じゃん」と沙織が言った。

「手伝わせてもらってるだけ」

「でも似合ってる、エプロン」


     * * *


 午後になって、雪がやんだ。

 健三が表に出て、空を見上げていた。


「いい光だ」と健三は言った。

 実結も続いて外に出た。

「健三さん」と実結は言った。

「ん」

「写真、ここでもやってみようと思います」

 健三は空を見たまま、少し間を置いた。

「そうか」と言った。

 会話はそれだけ。

 でもその「そうか」の中に、何かが入っていた気がした。


   * * *


 夕方、階段を上がる足音がした。

 二段飛ばしの、佳奈の足音だった。


「実結、いた」

「どうしたの?」

「見てほしいのがあって」と佳奈は言った。手に印画紙の束を持っていた。「昨夜焼いたやつ」


 雪の写真だった。

 街の雪。

 屋根の雪。

 電線に積もった雪。

 人の足跡が残る雪。

 全部、雪の写真だったが、全部光が違った。

 同じ白のはずなのに、一枚ずつ全然違う白だった。


「全部、雪なんだね」と実結は言った。

「春になったら撮れなくなるから。なくなる前に全部撮っておきたくて」


 なくなる前に。

 その言葉が、実結の中で静かに響いた。

「これ」と実結は一枚を指した。

 軒先から落ちる雪解け水の写真だった。

 水が落ちる瞬間が止まっていた。

 雫の形が、完全に止まっていた。


「今日の昼に撮ったやつ。シャッタースピード上げて」

「きれい」

「でしょ」と佳奈は言った。自慢でなく、共有として。

「撮ってみたいかも……」と実結は言った。


 言ってから、少し驚いた。自分の口から出た言葉に。

 佳奈は振り向かなかった。OM-4Tiを手に取りながら、「そっか」とだけ言った。

 

 急かさなかった。

 ただその気持ちを素直に受け取った。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 今回は「なくなる前に残したい」という感情を、佳奈の雪の写真を通して描いた回でした。

 そして実結はついに、“見る側”から“撮りたいと思う側”へ、静かに踏み出し始めています。

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