第13話 手配される春
春休みは、輪郭を失った時間だった。
止まったはずの人生の中で、実結は少しずつ「ここにいる」感触を取り戻していく。
雪の街と暗室の光が、まだ名前にならない未来を静かに照らしていた。
その夜、実結が一階に下りると、店内の灯りがまだ点いていた。
カウンターの向こうに健三が立っていて、電話をしていた。
実結が気配を消して引き返そうとした時、「ああ、織江ちゃんか」という声が聞こえた。
「......そうだ。うちに来てる。......ああ、ああ。なかなか、面白い子だ」
「......学校の方は、頼めるか。......そうか、わかった。じゃあこっちは身元を整える。......ああ。よろしく頼む」
電話が終わった。
実結は足音を立てて、もう一度階段を下りた。健三が振り向いた。
「起きてたか」
「喉が渇いて......」と実結は言った。
健三は黙って、コップに水を注いで渡した。
「聞こえてたか」と健三は言った。
「少し......」
「新学期から、ヒガコーに通いなさい」
実結はコップを持ったまま、驚いて健三を見た。
「......私が、学校に?」
「佳奈と一緒に。転校生という形を取る。細かいことは織江ちゃんが学校側と話をつける。身元はうちが引き受ける。親戚の子が訳あって預かることになった、それだけでいい」
実結は俯いた。
2030年で、あんなに行きたくなかった場所。
それなのに今、学校に通いなさいと言われている。
「......少し、考えてもいいですか」と実結は言った。
「ああ」と健三は言った。
* * *
翌日の昼過ぎ、五味先生が訪ねてきた。
ドアベルが来訪を告げ、いつもの白衣ではなく、黒いコートを着込んで入ってくる。春休みの私服姿を実結は初めて見た。眼鏡は変わらなかった。
カウンターに座って、コーヒーを一口飲んで、実結を見た。
「聞いたわね、健三さんから」
「はい」
「転入の書類は私が揃えておくから心配ないわ。制服も届けさせるし、ほかに必要なものもあわせてね」と五味先生は言った。「学校で何か聞かれたら、東京の学校と合わなくて、しばらくこっちにいることになった、それだけ言えばいい」
「......あの」と実結は言った。
「何?」
「わたし、学校は......」
言葉が続かなかった。
2030年の何かが戻ってきた。
画面の光。
動かないグループトーク。
タグのない写真。
透明なまま廊下を歩いていた感触。
五味先生は急かさなかった。
ただ待っていた。
「......怖いです」と実結はやっと言った。「学校が」
「そう」と五味先生は言った。驚かなかった。「でも制服は届けるわ」
それだけ告げた。
解決しなかった。でも否定もしなかった。
実結は助けを求めるように視線をめぐらせた。
カウンターの奥に、健三がいた。
健三は静かに頷いた。
見えないまま、足を出せ、という顔だった。
紀子がキッチンから顔を覗かせて、実結と目が合って、微かに笑った。
もう決まっているのよ、という笑いだった。
優しく、でも確かに。
実結が顔を上げようとした、その時だった。
「一緒に学校行けるじゃん」
佳奈が、後ろから抱きついていた。
「ちょ——」
「ねえねえ、嬉しくない? 嬉しいじゃん、絶対」
「いつから——」
「さっきから。全部聞こえてた」
横から沙織の声がした。「私も聞こえてた」
振り向くと、沙織と美穂が入口のところに立っていた。
沙織が「やったじゃん実結!」と笑った。
美穂はPHSを持ったまま、「同じクラスだといいね」と言った。
実結は抱きつかれたまま、五味先生を見た。
五味先生は小さく息を吐いて、視線を窓の外に逃がした。
眼鏡の奥の目が、困ったような、でもどこか安堵したような色をしていた。
実結は大きく息を吸った。
佳奈の腕の重さが、肩にあった。温かかった。
「……じゃあ」と実結は言った。
声が、少し震えた。
「行って、みようかな。学校」
佳奈が、後ろで声を上げた。
沙織が「よし!」と言って、美穂が「よかった」と喜んだ。
五味先生が、カップをソーサーに置いた。
カチン、と小さな音が店内に落ちた。
健三は何も言わなかった。
ただカウンターの奥で、コーヒーを飲んでいた。
琥珀色の灯りの下で、
喫茶小鳥遊の夜が、静かに満ちていた。
* * *
その夜、客間に戻って、実結は窓の外を見た。
雪がまた降り始めていた。
細く、静かな雪だった。
商店街の灯りに照らされて、白い粒が橙色の光の中を落ちていった。
スマートフォンを手に取った。バッテリーは、32%のままだった。
1998年3月。
新学期まで、あと少し。
実結は画面を伏せて、布団に潜り込んだ。
春の雪は、積もらない。
朝になれば、溶けている。
それでも今夜は降っていた。
実結の決断を、静かに祝うように、1998年の札幌の夜に、雪が降り続けていた。
「学校へ行く」という当たり前の選択は、実結にとっては小さな再生そのものです。
誰かに背中を押されながら、自分の意思で一歩を選ぶまでを書きました。
1998年の春は、まだ静かに続いていきます。




