第13話 手配される春
サツエキの周辺で遊んで帰宅した実結は、客間のベッドに仰向けに寝そべって、買ってきたペンを顔の前にして、嬉しそうに眺めていた。
「実結ちゃん、お風呂はいっちゃってねー」
紀子さんの呼びかけに応じ、風呂からあがった実結は、喉の渇きを覚えて、3階のキッチンに寄った。
コップに水道水を注ぎ、ひとくち飲む。
冷たい。
喉の渇きが癒されていく。
飲み終わったコップを洗い、水切りカゴに逆さにして置いた。
4階の客間へ戻ろうと階段に出たとき、ふと階下から物音が聞こえてきた。もう夜も遅い、階下の喫茶店舗は人がいない時間帯と思っていた。
よく見ると、1階からわずかに光が漏れている。
実結は、悩んだのち好奇心が勝った。
忍び足でゆっくりと、静かに1階へ下りて行った。
健三が誰かと話をしている。たぶん、電話だろうと思う。
バックヤードの出入口から、そっと覗くと店内は抑え気味に明かりが点いていて、カウンターの向こうに健三が立っていた。
受話器を耳に当て、電話をしている様子。
実結は、気配を抑えて、そのまま客間へ引き返そうとしたとき、「ああ、織江ちゃんか」という言葉が聞こえた。
「……そうだ。うちに来てる。……ああ、ああ。なかなか面白い子だ……それで、学校の方は頼めるか……そうか、わかった。すまないな、面倒かけて。いや、なんもなんも。うちはいいんだ。佳奈も楽しそうにしているしな……そうか、わかった。じゃあ、こっちは身元を整えておく……準備ができたら、頼む……ああ、よろしく頼む」
電話が終わった。
立ち聞きするつもりはなかったが、五味先生——織江の名前が聞こえてきて、好奇心に勝てなかった。
でも、さすがにこのタイミングで見つかるのはと思い階段に戻ろうとしたとき、気配を察したのか健三の声がかかる。
「実結ちゃんかい?」
気まずそうにして、実結が店内に入っていった。
「起きてたかい?」
「あの、お風呂いただいたところでした……こちらから声が聞こえたので、すみません……」
「いや、なんもなんも……実結ちゃん、こっちに座って。ちょっと話をしよう」
カウンターの向かいを指し、健三が言った。
立ち聞きしたことを怒ってはいないようだ。
実結は、健三の向かいのカウンター席についた。
健三はすぐに話を始めず、何かを沸かしていた。
実結は黙ったまま、健三が話してくれるまで待っていた。
まもなく、甘いミルキーな香りが立ってくる。
マグカップを実結の前にそっと置く。
「この時間だから、コーヒーはあれなんでな。ホットミルクだ……」
「……いただきます……」
カップを両手で包むように持つ。
立ち上る湯気から、シナモンのようなスパイスの香り。
ひと口含むと、甘いミルクが喉を通っていく。
「……甘い。美味しいです」
「そうかい。よかった」
健三は、嬉しそうにほほ笑んだ。
しばらく、ミルクを啜る音だけが、聞こえる。
半分ほど飲み終えたとき、健三が声をかけてきた。
「実結ちゃん……」
「はい……」
「学校に、通ってみないかい?」
実結は、カップを握ったまま、驚いて健三を見つめるだけだった。
「実結ちゃんは、佳奈と同い年。今年、高校2年生になるところだろう? それなら、佳奈と一緒に……沙織ちゃんや、美穂ちゃんもいる、ヒガコーに通ってみないか」
実結はすぐに答えがでなかった。
提案はすごくありがたいことだと思う。
こんな身元があやふやで、怪しい人物を受け入れてくれたばかりか、いろいろと環境を整えようとしてくれる。
感謝でしかないのだが……。
「いろいろ事情があるとは思う。喫茶店を手伝ってくれるのも、助かってる。紀子からもよく気が付くと聞いている。娘がふたりになったようで、嬉しいんだ……でも、実結ちゃん。せっかくだから、君の年なら、いろいろ経験をしておくべきだ、と思う。ちょっと、考えてくれないかい?」
「……私が、学校に……?」
「ちょうど4月の始業式から、2年に編入という形で、佳奈の親戚として転校生ということにする。それだけでいい」
2030年では、あんなに行きたくないと思っていた場所。
1998年に来ても逃れられないのか。
でも、せっかくの好意を無駄にはしたくない。
実結の心の中は、複雑に対極の答えが、交互に浮き上がり、消えていく。
たぶん、そんな様子が顔にでていたのだろう。
健三は、黙って実結の答えを待ってくれていた。
「……少し、考えさせてもらってもいいですか?」
実結は、結論を先送りにするしかなく、この場で答えが出せなかった。
「ああ、もちろん。ゆっくり考えていい」
実結は、カップの残りを飲み干す。
「実結ちゃん、急なことで驚いているだろうが……」
健三の気遣いがわかる。
はっきりと、学校へ行くと答えたい自分と、まだ怖いと感じる自分が心の中でせめぎ合う。
「いえ、ありがたいお申し出だと思ってます。でも、ちょっとまだ踏ん切りがつかないので……少し時間をいただけますか?」
「もちろんだとも……」
健三はこれ以上、今日は押しても無駄だと思ってくれたらしい。それに、無理に押し切るつもりもなかったのだろう。話をそこで切り上げた。
「ご馳走様でした。おやすみなさい……」
「ああ、お休み……」
今日は眠れるだろうか。
そんな気持ちで、階段を1段ずつ、上っていった。
* * *
次の日。
実結はいつもの時間、朝早くに目が覚めた。
でも、その目覚めは、あまりよくなかった。
そんなに、眠れなかったのだ。
洗面台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。
目の下にしっかりと、黒い影がある。
3階に行くと、キッチンで紀子が朝ごはんの支度をしていた。
「おはようございます」
顔を上げて、実結に視線を向ける。すぐに様子を察して、手を拭いながらキッチンからでてくる紀子。
「おはよう……あら、どうしたの? 眠れなかった?」
髪を手櫛で整えて、頬をそっと両手で挟み、実結の顔をのぞき込む。右の親指で、目の下をやさしくなぞる。クマが少し薄くなったのを紀子は確認していた。
「あらあら、目にクマが……眠れなかったのね。ちょっと、こちらにいらっっしゃい……」
実結の手を引いてリビングのソファーに座らせる。
「ちょっと待ってて……」
いつものように紀子がコーヒーを淹れてくれた。
マグカップから立ち上る湯気。鼻に抜ける爽やかな果実の香り……青りんごや、柑橘系のような澄んだ甘酸っぱい香りに、はちみつやナッツ、アーモンドに似た香ばしい匂い。
ひと口啜ると、さらにいちごやプラムのような香りも喉の奥からあがってくる。最後に、ほのかに花の香りが残る。
気持ちが落ち着く。
果物や花の香りに包まれる。
チン!
キッチンでレンジのタイマーが鳴った。
バクン! と扉の開く音。
リビングに戻ってきた紀子は、手に湯気のあがるタオルを持っていた。両手で軽く揉んで冷ましながら。
「ソファーによしかかって。ほらこれで目元を温めましょう……」
「ありがとうございます……気持ちいいです……」
「そのまま、少しじっとしててね」
ソファーの背に体を預け、天を向きながら顔に蒸しタオルを載せしばし温める。
何だかコーヒーを飲んだばかりなのに、顔に載せたタオルが心地よかったのか、意識が遠のいていった。
しばらくして、何かの物音で深い眠りの底から、意識が浮き上がる。
薄目を開くと、視界が生成色で埋まっている。
タオルが視界を塞いでいることに、おぼろげに気づき、体を起こしながらタオルを外す。
「あら、起こしちゃったかしら?」
「あ……寝ちゃってました……」
「ほら、タオル貸して……こっち向いて? うん、大分よくなったわね……あとは仕上げ」
紀子は、起き上がった実結の隣に座り、手元のチューブ入りのアイクリームを指先に絞り出す。
そして、強くしないよう目元にクリームを延ばし塗り込んだ。そして優しくマッサージしてくれる。
何があったのかは、紀子は聞かないでいてくれた。
マッサージが終わったとき、静かに頭に手を置いて、声をかけてくれた。
「はい、これでおしまい。もう、寝不足でクマなんか作ってたら、かわいい顔が台無しよ? ……今日はお店のお手伝いはいいから、部屋で眠ってらしゃい……」
実結は素直にその提案を受け入れることにして、客間に帰って、布団に入る贅沢な時間を過ごすことを選択したのだった。
* * *
午後、1階の喫茶店のドアベルが鳴る。
来訪を告げるその音と共に現れたのは、店の客ではなかった。
いつもの白衣ではなく、黒いコートをまとった女性。
私立札幌東高校の化学教師、五味織江だった。
カウンターにいた健三は、その姿を認めて、話しかけた。
「織江ちゃん、いらっしゃい」
「……どうも、健三さん。紀子さんは、上かしら?」
「ああ、そうだが……今日はどうしたんだい?」
「紀子さんから連絡があったんです、今朝……実結さんのことで」
健三は、ばつが悪そうな表情をしていた。
それを察して、織江が質問する。
「実結さんと何かあったんですか?」
右手で後ろ頭を掻きながら、言い難そうな健三。
「いやぁ、昨日さ、夜に織江ちゃんに電話しているところ、聞かれちゃってさ……」
「……」
「……学校に通わないかって、言ってしまった」
ハァー、と深いため息を吐く、織江。
「……そうでしたか。ちょっと焦りましたね? もう少し慎重になるべきです」
「……ほんと、面目ない……」
「なんも、責めるつもりはないんです。私も彼女がヒガコーに通うことには賛成している側なので。でも、彼女の置かれた特殊な状況を考えると、ね」
「そだねぇ。あまり寝れなかったみたいだぁ」
「わかりました。実結さんには私から話をしましょう。……でもその前に、紀子さんから今朝の様子をもう少し詳しく聞いてからにします」
「そうか、頼むよ。上がってくれ……」
健三との会話を切り上げ、実結の今朝の様子を聞きに、紀子のいる3階へ織江は階段を上がって行った。
* * *
客間で実結は、ベッドの上でぼーっと過ごしていた。
昨日、サツエキ周辺のお店で、お揃いで買ったペン。
天井に向けてかざしてみる。
軸の色がサニーオレンジ、グリップの部分が鮮やかなパステルピンク。佳奈と交換でできた私だけのペン。
4人の友人とのお揃いという事実が、気持ちを和らげてくれる。
——ヒガコーに通ってみないか。
昨晩、健三から告げられた提案が、ふと頭を過る。
彼女たちと過ごす学校なら、もしかして。
佳奈や沙織、美穂と一緒なら、きっと。
愉快で、楽しい学生生活も、あり得るかもしれない。
でも……。
この世界で、それは許されるのだろうか。
昨日は、いつになく楽しい時間を過ごすことができた。それは間違いない。
それなのに、未来の影が執拗に実結を追いかけ、心に迫ってくる。不安という形となって。
未来——本来自分が居た世界では、精神的な透明化をしてしまっていたのに。
ここで、そうならないとは言い切れないのではという不安が残り、拭えない。
ペンを持って、机に向かう。
その机には1冊のノート。
新しいページを開く。
昨日、買ってきたこのペンと、ノートに、この世界に来てからのことを、少しずつだが書き始めた。
寝不足なのはそのせいでもあった。
続きを書こうとノートに向き合ってみたものの、気持ちが乗らず、今は、手に付かなかった。
あきらめて、今度はうつぶせにベッドに横たわり、枕に顔をうずめて、「うーん」と小声で唸ってみても、実結を取り巻く世界は、何も変わらなかった。
結局、自分で決めないといけない。
どうするかを。
突然、扉をノックする音が聞こえ、思考が中断する。
「実結ちゃん、起きてるかい?」
声の主は紀子だった。
実結は、体を起こして、返事をした。
「はい、起きてます!」
「ちょっと、リビングまで下りてきてくれる? 急がなくていいから、待ってるわね……」
扉の向こうの気配が離れ、階段を下りる音が聞こえた。
実結は、クローゼットの隣の姿見で、パッと身支度を済ませる。
一歩顔を鏡に近づけ、目元のラインをみる。
まだ、うっすらと跡が残ってはいるものの、紀子のおかげで大分薄れてマシになっている。
客間を出て階下のリビングへ向かった。
* * *
リビングに入ると、ソファーには紀子のほかにもうひとり、来客がいるのに気づく。
あの時は白衣を着ていたが、今日はそれがなかったので一瞬わからなかったが、すぐに誰か思い出した。
確か——五味先生。
そう、沙織が親し気に五味ちゃんと呼んでいた、ヒガコーの教師。
五味織江が、そこに座っていた。
「あ、実結ちゃん。こっちに来て座って? 織江ちゃん――あら五味先生って呼ばないといけないわね?」
織江は、手を振って否定する。
「いえ、紀子さんに先生って言われると、気恥ずかしいので、いつもの呼び方で構いません――ごめんなさい、実結さん。突然押しかけて。ちょっと、私と話をしませんか。あなたが良ければだけど……どうかしら?」
白衣を着ていなくても、学校で初めて会った時と印象は変わらない。
実結にとって、この世界に来て自分を認識してくれて、話を聞いてくれた数少ない人物のひとり。
無下に断る理由はなかった。
「……はい、構いません」
実結はそう答えて、斜め向かいのソファーにストンと腰を下ろす。
紀子がカップを人数分載せたトレイを持ってくる。
カップにはコーヒーではなく、お茶——たぶん紅茶だろう――が湯気をくゆらせていた。
柑橘系の爽やかで凛とした香りがリビングに広がっていく。
「織江ちゃんは、紅茶派だったわよね?」
「いただきます……アールグレイだ……」
織江はひと口紅茶をすする。
左手でソーサーを胸の高さに持ち、右手でカップを口元へと運ぶその所作は、飲み慣れた姿とわかる。
実結も真似して、口に運ぶ。
特徴のあるフレーバーが、鼻孔に駆け上がる。
しばし、カップが当たる静かな音だけが、その場に響いていた。
その静けさを、織江の一言が遮った。
「今日、お話ししたかったのは、昨晩、健三さんから聞いた話のことよ」
実結は姿勢を正し、頷いた。
軽く手を握り、膝の上に置いている。
織江はその様子を見て、声をかける。
「緊張しなくても大丈夫……」
織江は持参した書類ケースから、一冊のパンフレットを取り出し、ローテーブルに置いた。
その表紙には、学校の建物を背景に笑顔で並ぶ生徒の姿が写っている。
「まずは、うちの学校——私立札幌東高等学校が、どんな学校かを知ってもらうのがいいと思って。通うかどうかは、それを聞いてからでも遅くないでしょ?」
しばし無言の間が流れた。
その間に織江は、実結の瞳の奥の揺れを見逃さなかった。
彼女は、まだ決めていない、悩んでいる。
まだだ。まだ学校への興味は、捨てられていない。
可能性はある。まだ、あるはずだ。
「……まあ、はい。そうですね……お願いします」
遠慮がちに実結は、続きを促す。
「ありがとう。じゃあ、あらためてよろしくお願いします」
織江は座ったまま姿勢を正すと、実結に対し軽く一礼をしてみせる。
「でも、まだ行くと決めたわけじゃないので……」
伏した目で、告げる実結。
織江は、その言葉に拭えない彼女の不安と、揺れる意思を感じ取る。
「今はそれでいいわ。では、始めるわね……」
スーツの胸ポケットから万年筆を取り出すと、パンフレットのページをめくる。
理念、校風を記したページ。
「うちの学校は、『自主自律/知行合一』を掲げています。『自分の立てた規範に従って自分で行動し、知識を得るだけではなく、それを自分の意思で実践・行動してこそ意味がある』という考えです。生徒の自主性を尊重し、勉学のみならず、部活動にもおいても、知識や得た経験を自ら実践し活かすことを勧めています。勉強のカリキュラムもかなりの自由が認められているわ……」
ページをめくる。
カリキュラムの紹介、授業風景の写真が並ぶ。
「……気になることと言えば、授業についていけるかという点もあると思います。うちの学校は私立なので公立に比べて、英語、数学の授業進度は早い方です。実結さんの学校はどうでしたか?」
「私の通っていた学校でも、英語と数学は力を入れてました。期末試験の結果では、いちおう学年10番以内には入ってましたけど……」
「それなら、十分付いていけそうね。それにもし4月に2学年に編入するとして、形だけでも編入試験は受けてもらうことになる。科目は英数と国語。国語は得意?」
「はい、苦手ではないと思います……」
「でも、編入試験はあくまで点数だけではなく、あなたの学力がどの程度あって、編入後にどれだけフォローが必要かを見極めるためなので安心してください」
編入する生徒が一番不安を抱える授業進度やカリキュラムについての説明を終え、織江は思う。
実結の表情に、学校の理念、校風、カリキュラムの説明に対しては、何も不安を示していないし、答えてくれた内容からは、勉学には自信があるようだ。
では、何が彼女の不安の源なのか。
彼女の中にあるその悩みは何か。
ページをめくる。
学校生活や行事、部活動の紹介ページ。
ページを見た実結の表情に、一瞬痛みのような苦しみに似た拒否感が過る。
なるほど、人間関係か。
彼女が抱える問題の根源は、そこにあると。
織江はその微妙な機微をつかみ取る。
「実結さん、あなたの一番の不安は、人間関係なのね?」
伏せていた顔をあげ、織江を見つめる実結の瞳は大きく揺れていた。
ビンゴ。当たってしまった。
「言いたくなければ、言わなくてもいい。でも、もし話してくれるなら、聞かせてくれないかしら……」
実結は、ぽつりぽつりと、未来の世界での出来事を、語り始めた。
それを織江は、口を挟まず静かに聞いていた。
紀子も一緒に。
実結は未来の学校で、居場所が無かったのだった。
存在が透明になってしまったかのように。
そして、ここでも同じことになることを恐れている。
その気持ちは十分伝わった。
「よく話してくれたわ。実結さん――それについては、私の口から無責任に大丈夫とは言えないけれど……すでに交流のあるうちの生徒を見て、考えてくれたらいいと思うわ」
織江は実結の目をまっすぐに見つめて告げる。
実結は黙ったまま、俯いている。
「実結さんの事情が事情なので、もし編入が可能になったら、私が担任のクラスに編入してもらいます。クラスには――佳奈さんは別のクラスだけれど、衛藤さんと、倉田さんは同じクラスになる。誰も知らないということはないようにする。それに写真が趣味なら、部活動なら私が顧問をしている写真部がある。学校生活は十分、楽しめると思うわよ?」
あとは、少し悩む時間と……うちの生徒たちに任せよう、と織江は決めた。これ以上は、実結自身が決めることだ。
「パンフレットは置いていくから、考えてみて。もう、3月も終わりに近いから、できれば明後日までには、答えを聞かせてくれないかしら?」
「はい……」
見送りを辞して、織江は帰っていった。
実結は目の前のパンフレットのページに目を落とし、しばし思考の海に沈んでいた。
そんな実結の肩を黙って紀子は抱きしめていた。
* * *
その夜、客間でひとり実結は、机に置かれたパンフレットの表紙を眺めていた。
学校のイメージを伝える笑顔の生徒の写真。
それは実結にとっては意味のない作り物の笑顔。
中身のない無機質なものに見えた。
未来の世界の孤独。
SNSというデジタルネットワークの世界の孤独。
学校という閉鎖的な世界での孤独。
この世界に持ち込んだデジタル機器は、その機能の大半を失い、ネットワークから隔絶された。
別の意味での孤独に置かれたが、SNSとは無縁の世界に身をおくことができた。
それでも、「学校」という器は、変わらず存在している。形を変えて。
実結にとっての「学校」は自分を透明化させる仕組みのひとつであり、その仕組みの中では、再び存在が否定されるかもしれなかった。
その不安だけは、拭いきれず残っている。
ふと、サツエキ周辺の店で買った、あのペンが目に留まる。
4人で買ったお揃いのペン。
昨日の出来事だったが、それは間違いなく楽しくて、嬉しい思い出となった。
佳奈たちとの交流は、自分の存在の肯定しかなく、未来で感じた辛さは微塵も感じなかった。
それに健三や紀子。
まるで家族のように接してくれる。
感謝しかない。
最後に、織江。
教師としての責任だけではない、真摯な向き合いをしてくれる彼女にも、感謝しかない。
実結はノートを開き、気持ちを整理するように、昨日、今日の出来事を書き加えていった。
サツエキでの彼女たちとの交流。
カウンターで健三が淹れてくれたホットミルクの味。
蒸しタオルの温かさと、紀子の手の感触。
未来の辛い記憶が、過去の世界の思い出で上書きされていく。
心の枷がすこしずつ、ゆるく外れていく。
* * *
あくる日。
実結は意を決して、健三と紀子に告げた。
「私、学校に行きたい……です」
紀子は実結を抱きしめ、健三は嬉しそうに頷く。
実結は、困ったような嬉しいような複雑な顔をしていた。




