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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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第14話 始業式

 知らない街の春は、少しだけ怖い。

 けれど、人は時々、「行ってみようかな」の一言で、人生を動かしてしまう。

 これは、1998年の札幌で、ひとりの少女がもう一度“存在してみる”物語です。

 四月の札幌は、まだ冬の顔をしていた。


 始業式の朝、窓を開けると、空気の芯に冷たさがあった。

 東京の四月とは全然違った。息が白かった。

 空は薄青鈍うすあおにびで、雲が低く、でも雨ではなかった。


 制服が、椅子の背にかかっていた。

 数日前に届いていた。


 紺のセーラー服に、白いスカーフ。

 背中の大きな四角い襟には、外周の縁に沿って二重の白いラインが走っていて、

 下辺の両角の内側に、小さな星がひとつずつあしらってあった。


 手に取って、袖を通した。

 鏡を見た。

 見知らぬ自分が、そこにいた。


 怖い、という気持ちは、まだあった。

 でも「行ってみようかな」と言ってしまった言葉が、 実結の背中を静かに押し続けていた。

 紀子がカウンターから顔を出した。

「似合ってる」と言った。


     * * *


「遅い!」

 玄関を出ると、佳奈が商店街の角に立っていた。カメラをたすき掛けにして、鞄を肩に引っかけて、息を白く吐きながら実結を見ていた。

「ごめん」

「もうちょっとで置いてくとこだった」

「置いてかないでしょ」

「置いてかないけど」と佳奈は笑った。「行くよ」

 商店街の朝は動いていた。魚屋が台車を押していた。パン屋の窓から湯気が出ていた。クリーニング店のご主人が、シャッターを上げながら佳奈に手を振った。

「顔広いね」と実結は言った。

「生まれた時からここだから」と佳奈は言った。

 生まれた時から。

 その言葉が、実結の胸に静かに刺さった。自分がまだ生まれていない場所を、佳奈はずっと歩いてきた。

「実結、大丈夫?」

「大丈夫」と実結は言った。

「嘘くさい」

「……七割くらい大丈夫」

「十分じゃん」と佳奈はあっさり言って、また歩き出した。「残り三割は私が引っ張るから」


     * * *


 ホームルームは二年三組だった。

「転入生を紹介します」と担任の五味先生が言った。

 実結は立ち上がった。

 三十人の視線が、一斉にこちらを向いた。

 怖い、と思った。でも、透明なままここに立っているのではないと実結は知っていた。三十人に見えているということだった。存在しているということだった。

「麻倉実結です。東京から来ました。よろしくお願いします」

 声は震えなかった。


 放課後、写真部室の前に、人が集まっていた。

「来たじゃん」

 後ろから声がした。佳奈だった。カメラを首にかけていた。

「一緒に入ろ」

 佳奈が実結の腕を引いた。

「入ります」と実結は言った。

 部室の奥から五味先生が顔を出した。白衣を着ていた。眼鏡の奥の目が、実結を見た。

 ちっ、とはならなかった。

 ただ、静かに頷いた。

 お帰り、と言っているような頷きだった。

 実結は部室に足を踏み入れた。

 停止液の匂いが、またした。

 ただいま、と思った。言葉にはしなかったけれど。

 実結の、1998年が、始まった。


 始まりの朝は、たいてい不安と一緒にやってきます。

 それでも、誰かに手を引かれながら踏み出した一歩は、あとから振り返ると確かな始まりになっている。

 停止液の匂いとともに始まる、実結の1998年を見届けていただき、ありがとうございました。

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