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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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15/41

第15話 写真部、最初の日

 誰かと同じ部屋にいるだけで、少し救われる日があります。

 写真部の部室には、薬品の匂いと、夕暮れと、それぞれ違う「好き」が集まっていました。

 これは、実結が“居場所”を一枚ずつ現像していく、春の記録です。

 写真部の部室は、校舎の北棟の端にあった。


 もともとは準備室として使われていた部屋らしく、窓が一つしかなかった。でもその分、壁が広かった。四面の壁に、歴代の部員が撮った写真が貼られていた。画鋲の穴が重なり合って、壁の表面がざらついていた。

 放課後の部室に、人が集まってきた。


     * * *


 最初に来たのは、柏木友里子かしわぎ ゆりこだった。

 鞄からGR1を取り出して、部室の隅の席に座った。誰にも声をかけなかった。でも部室全体を、ひとつひとつ確かめるように見ていた。

「柏木」と佳奈が声をかけた。

「うん」と友里子は答えた。

 次に来たのは、野村久だった。

「野村くんのカメラ、見せてもらってもいい?」と実結は聞いた。

「どうぞ」と久はカメラ(MZ-3)を差し出した。

「どんなの撮るの?」

「線路とか、橋とか。インフラが好きで。長くそこにある、動かないものが好きで」


     * * *


 美東有栖びとう ありすが来たのは、部員が一通り揃ってからだった。

 佳奈を見つけた瞬間に、表情が変わった。灯りが点いたような変化だった。でもすぐに元に戻った。

「美東有栖です。入部させていただきたくて」

 鞄からPen EE-3を取り出した。白いボディの、小さなカメラ。

「かわいいカメラ」と実結は思わず言った。


     * * *


 部長の坂上が黒板の前に立った。

「今年の活動について話す。目標は文化祭の展示。各自テーマを決めて撮り続ける」

「転入生の麻倉は」と坂上が実結を見た。「カメラは?」

「今はOM-40を使ってます。フィルムで。佳奈さんのサブ機を借りてる感じで」

「サブ機って言うな」と佳奈が奥から言った。「ちゃんと現役だから」

 笑い声が起きた。

 実結は、その笑い声の中にいた。弾かれていなかった。透明でもなかった。


     * * *


 部室の奥の扉が開いた。

 五味先生が白衣のポケットに手を入れて出てきた。

「新入生が二人入ったのね」と五味先生は言った。「化学的に言えば、新しい試薬が加わったということよ。反応が変わる。悪いことじゃないわ」

「麻倉さん、暗室の使い方は佳奈から習ってるわね」

「基本的なことは」

「結構。わからないことがあれば聞きなさい」

 五味先生は暗室に戻った。

 停止液の匂いが、一瞬だけ濃くなった。


     * * *


 部活の終わりに、友里子が実結の隣に来た。

「OM-40、使いこなしてる?」

「まだ全然」

「フィルム、何枚撮った?」

「今日で九枚」

 友里子が少し考える顔をした。

「残り何枚か、わかる?」

「わからない。フィルムを入れたのが佳奈さんで、今何枚入ってるか聞いてなくて」

「それでいい」と友里子は言った。「残り何枚かわからない方が、真剣に撮る。毎回が最後の一枚かもしれないから」

 友里子はそれだけ言って、鞄を持って出ていった。

 毎回が、最後の一枚かもしれない。


     * * *


 部室に、実結一人が残った。

 実結は鞄からカメラを取り出した。

 ファインダーを覗いた。

 部室が、四角く切り取られた。

 今、何を撮りたいか。

 この部室を、と思った。誰もいなくなった部室を。夕光が橙色に染めている、この一瞬を。

 息を止めた。

 人差し指が、シャッターボタンに触れた。

 乾いた軽い音が、部室に落ちた。

 フィルムカウンターが、動いた。

「9」になった。

 窓の外に、四月の夕暮れがあった。

 実結の1998年が、静かに、一枚ずつ積み重なっていた。

 フィルムには枚数があります。

 だからこそ、一枚ごとに「何を残したいか」が写ってしまう。

 1998年の放課後が、あなたの中にも静かに残ってくれたなら嬉しいです。

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