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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

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第16話 四月の解像度

 雪解けの札幌で、実結は少しずつ「見ること」を覚えていきます。

 写真を撮ることは、世界を切り取ることだけではなく、自分の輪郭を確かめることでもありました。

 これは、1998年の光と、フィルムの粒子と、まだ名前にならない感情たちの記録です。

 四月が、少しずつ解けていった。

 雪が消えた。商店街のアスファルトが、全部顔を出した。軒先から落ちていた雪解け水の音が、いつの間にかしなくなっていた。

 代わりに、朝の空気の質が変わった。冷たさの中に、何か柔らかいものが混じり始めた。

 まだ春とは言えない。でも冬でもなくなっていた。季節が、どちらでもない場所を歩いていた。

 学校に通い始めて、二週間が経っていた。

 実結は毎朝、佳奈と商店街を歩いた。佳奈は毎朝遅かった。でも毎朝、角で待っていた。遅刻ぎりぎりの時間に、息を白く吐きながら。

 それが、実結の朝の始まりになっていた。


     * * *     


 二年三組の教室は、校舎の東側にあった。

 朝の一時間目、東側の窓から光が入った。春に向かう朝の光は、まだ低い角度から差し込んで、教室の床に長い影をつくった。

 実結はその光を、授業中にときどき見ていた。光の角度が、時間とともに変わっていくのを。誰も気にしていない変化を、実結だけが見ていた。

 隣の席の橘は、話しかけてくるタイプだった。授業の合間に、小声で話しかけてきた。東京の話を聞きたがった。実結は答えられる範囲で答えた。答えながら、自分が東京について話す時に、どこか他人事のような感覚があることに気づいた。

 2030年の東京は、1998年の橘には想像もできない場所だった。

 でも1998年の東京も、実結には説明しきれなかった。


「東京って、やっぱり人多い?」

「多い」と実結は答えた。

「怖くない?」

「慣れると怖くない。でも」と実結は少し考えた。「多すぎると、見えなくなるものがある気がして」

「どういう意味?」と橘が聞いた。

 実結は上手く説明できなかった。「なんか、人が多すぎると、一人ひとりが見えなくなるっていうか」と言って、曖昧に濁した。

「わかるような気がする」と橘は言った。


 わかるような気がする、で終わった。

 でも実結には、橘がわかっている以上のことを言おうとしていた気がして、少し可笑しかった。


     * * *


 写真部の活動は、週三回だった。

 火曜と木曜と土曜。火曜と木曜は放課後に部室に集まって、各自が撮ってきたものを現像したり、引き伸ばしたりした。土曜は撮影に出ることが多かった。

 実結は毎回、参加した。

 最初の一週間は、見ていることが多かった。佳奈がOM-4Tiで撮ってきたフィルムを現像する。友里子がGR1で撮ったスナップをプリントする。久がMZ-3で撮ったインフラの写真を、真剣な顔で確認する。それぞれの手順と、それぞれの目の動かし方を、実結は見ていた。

 カメラを持っている人間は、カメラを持っていない時も、何かを見ている目をしていることに実結は気づいた。

 撮る、という行為が、見る、という姿勢を作るのだと思った。

 二週目から、実結もOM-40を持って来るようになった。


「今日は何枚撮った?」と佳奈が聞くのが、帰り道の習慣になっていた。

「三枚」

「少ない」

「三枚しか撮りたいものがなかった」

「撮りたいものだけ撮るのは正しい」と佳奈は言った。「でも撮りたくないものを撮ってみるのも、たまにはいい。なんで撮りたくないのかがわかる」

「撮りたくないものを撮る?」と実結は聞いた。

「そう。苦手なものを撮ると、なんで苦手なのかが見えてくる。自分の目の癖がわかる」


 実結は、その言葉を持ち帰った。

 客間の布団の中で、考えた。

 自分が撮りたくないもの。

 人だと思った。正面を向いた人の顔が、実結は苦手だった。後ろ姿や、横顔は撮れた。でも顔を向けられると、シャッターを切れなかった。

 なぜかを考えた。

 答えは、すぐに出た。

 顔を向けられると、見られている、という感覚が来るからだと思った。撮る側なのに、見られている感覚。2030年で、画面越しに見られ続けてきた感覚。

 実結は天井を見た。

 1998年の天井だった。


      * * *


 木曜日の部活で、五味先生が暗室から出てきた。

 珍しく実験用のエプロンをしていた。手に現像済みのフィルムを持っていた。


「麻倉さん」と五味先生は言った。

「はい」

「これを焼いてみてくれる?」


 フィルムを差し出した。実結は受け取った。ライトボックスに透かして見た。

 モノクロのフィルム。コマが並んでいる。でも一コマだけ、他と明らかに露光が違うものがあった。暗い、アンダー気味のコマ。


「何のフィルムですか」と実結は聞いた。

「昔撮ったもの」と五味先生は言った。


 それだけだった。

 実結は暗室に入った。引き戸を閉めた。緋色の世界が戻ってきた。停止液の匂いが、鼻の奥に届いた。

 ネガをキャリアにセットした。引き伸ばし機のランプを点けて、ピントを合わせた。

 像が、台の上に投影された。

 人が、写っていた。

 廊下を歩いている、後ろ姿の人間だった。制服を着ていた。セーラー服だった。でも今のヒガコーの制服とは違う型だった。古い型。背カラーにラインのない、シンプルな型。

 一人ではなかった。

 二人が、並んで歩いていた。

 廊下の窓から光が差し込んでいた。逆光だった。二人の輪郭が光に溶けていて、顔は見えなかった。でも二人が笑っているのは、肩の傾き方からわかった。

 実結は露光時間を設定した。アンダーのネガだったから、少し長めに。

 スイッチを入れた。光が、印画紙に降り注いだ。

 現像液に、印画紙を沈めた。

 待った。

 廊下。逆光。二人の後ろ姿。笑っているらしい肩。

 少しずつ、少しずつ、濃淡が定まっていった。

 止め時だと思った瞬間に、停止液に移した。

 作業灯の下で、完成した印画紙を見た。

 暗さの中に、光が確かにあった。廊下の窓から差し込む光が、二人の輪郭を縁取っていた。暗いから、その光だけが際立っていた。

 引き戸を開けた。

 五味先生が、部室の椅子に座って待っていた。

 実結は印画紙を渡した。

 五味先生はそれを受け取って、見た。長い間、見ていた。眼鏡の奥の目が、細くなった。


「ちゃんと焼けましたか」と実結は聞いた。

「ええ」と五味先生は言った。写真を見たまま。「思っていたより、よく見えたわ」

「誰ですか、写っている二人」

 五味先生は少し間を置いた。

「昔の話よ」と言った。煙幕のような答えだった。


 実結はそれ以上聞かなかった。

 五味先生が「村瀬織江として生きていた頃」と言っていたことを、実結は知っていた。写っている二人のうち一人が、かつての五味先生かもしれないと思った。でも聞かなかった。

 聞かない、ということを、実結はこの街で少しずつ覚えていた。


     * * *


 土曜日の撮影は、東札幌の駅周辺だった。

 久が、線路沿いを歩きたいと言い出した。佳奈が賛成した。坂上と河合は別の場所で撮ると言って、二人で出かけていった。友里子は一人で行動すると言った。有栖は、佳奈の後ろについて歩いた。

 実結は、久の隣を歩いた。

 線路沿いの道は、まだ枯れた草が残っていた。黄枯茶きがれちゃ色の草が、線路の縁に沿って連なっていた。空は白群びゃくぐん色で、雲が薄く広がっていた。

 久は歩きながら、何度もしゃがんだ。

 低い視点から線路を見ていた。レールの高さに目を合わせて、その先にある消失点を探していた。

「なんでそんなに低くして見るの?」と実結は聞いた。

「レールが一番きれいに見えるから」と久は言った。「高いところから見ると、線路は細い線にしか見えない。でも低くすると、レールの厚みが見える。構造物として見える」


 実結はOM-40を構えて、しゃがんだ。

 銀灰ぎんかい色のレールが、両側に広がって、どこまでも続いていた。消失点の向こうに、何かがある気がした。

 息を止めた。

 人差し指が、シャッターボタンに触れた。

 音が、線路沿いに落ちた。

 久が隣でMZ-3を構えていた。同じ方向を見て、シャッターを切った。

 二台のシャッター音が、ほぼ同時に線路沿いに落ちた。

「同じとこ撮ったね」と実結は言った。

「でも違う写真になると思います」と久は言った。「使うフィルムも、レンズも違うから。同じ場所でも、違う写真になる」


     * * *


 佳奈は、線路沿いを撮っていなかった。

 線路から少し離れた場所に立って、OM-4Tiを構えていた。撮っているのは線路ではなく、線路のそばに立っている有栖だった。

 有栖は、線路を見ていた。

 OM-4Tiのシャッター音がした後に、有栖の肩が少し揺れた。気づいていたのだとわかった。


「有栖、何見てた?」と佳奈は聞いた。

「線路」と有栖は小さく答えた。

「どこまで続いてると思った?」

 有栖は少し間を置いた。

「どこまでも」と言った。

「いい答え」と佳奈は笑った。


 有栖が、また肩を揺らした。今度は、別の理由で。

 実結は、それを少し離れたところから見ていた。

 OM-40を構えた。

 佳奈と有栖の、二人の後ろ姿を、フレームに入れた。二人の間の距離と、二人が見ている線路の先と。

 どちらでもない場所を、測った。

 シャッターを切った。

 五味先生が暗室で焼かせてくれた写真を、実結は思い出した。廊下を歩く二人の後ろ姿。逆光の中の、肩の傾き。

 あの写真と、今自分が撮った写真は、似ているかもしれないと思った。

 でもその意味は、まだわからなかった。


     * * *


 帰り道、佳奈が実結に聞いた。


「今日は何枚?」

「七枚」と実結は答えた。

「先週より増えた」

「見たいものが増えた」

 佳奈が実結を見た。

「それ、いいことだよ」と佳奈は言った。断言として。


 東札幌の夕暮れが、街に落ちていた。

 黄昏時の空が、薄紅うすくれないからあかねへ変わっていくところだった。商店街の灯りが、ひとつひとつ点り始めていた。琥珀こはく色の光が、アスファルトの上に滲んでいた。

 佳奈がカメラを実結に向けた。

「カメラ貸して、撮っていい?」

 実結は一瞬だけ、止まった。

 正面を向いた人間を撮られる、という感覚が来た。でも今度は、逃げようとは思わなかった。

「うん」と実結は言った。


 OM-40の、乾いた軽い音が、夕暮れの商店街に落ちた。

 自分のカメラが、自分を撮った。

「どんな顔してた?」と実結は聞いた。

「いい顔」と佳奈は言った。それだけだった。

 喫茶小鳥遊の灯りが、商店街の向こうに見えてきた。

 琥珀色の光が、この街に帰ってきた実結を、静かに待っていた。

 撮る側でいることと、誰かに見つけられること。

 その距離を、実結は少しずつ測り始めています。

 線路の先へ伸びていく視線のように、この春もまた、静かに続いていきます。

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