表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第1章:停止液の街

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/41

第17話 四月の終わり、現像された光

 暗室の中では、すぐには見えないものがあります。

 光も、輪郭も、感情も、時間をかけて少しずつ浮かび上がってくる。

 これは実結が「見えるようになるまで」の、最初の一ヶ月の記録です。

 四月の最後の土曜日、実結は一人で暗室に入った。


 佳奈は朝から外に撮影に出ていた。久は鉄道の撮影で江別まで行くと言っていた。沙織と美穂は、街に買い物に行った。部室には実結だけが残っていた。

 引き戸を閉めた。

 緋色の世界が、戻ってきた。

 停止液の匂いが、鼻の奥に届いた。最初に嗅いだ時の、あの刺々しい刺激は、もうなかった。ただ、ここにある匂いとして、肺に入ってきた。


 現像するフィルムが、手の中にあった。

 喫茶小鳥遊に来てから、学校に通い始めてから、少しずつ撮り溜めてきたフィルム。OM-40のフィルムカウンターは、今日の時点で「23」を指していた。

 二十三枚。

 三月の終わりから、四月の終わりまで。一ヶ月の間に、実結が撮りたいと思ったものの数。

 現像タンクに、フィルムを装填した。暗袋の中で手探りで進める作業を、実結は今では怖がらなかった。見えない中で手を動かすことに、少し慣れていた。


     * * *


 現像液を注いで、タイマーをセットした。

 攪拌を始めた。

 規則的なリズムで、タンクを傾けた。佳奈がいつもしていた動作。体に馴染んだ動作になるには、まだ遠かった。でも最初の頃よりは、迷いが減っていた。

 攪拌をしながら、実結は暗室の中を見渡した。

 引き伸ばし機。現像トレイ。壁の露光時間表。安全灯の緋色。

 この部屋で目が覚めた夜から、一ヶ月が経っていた。

 あの夜、実結は停止液の匂いで目が覚めた。扉を素通りして、廊下につんのめって飛び出して、誰にも認識されなかった。透明なまま、夜の学校を彷徨って、屋上の端で膝を抱えていた。

 今は、暗室に一人でいられる。

 タンクを傾けるリズムが、暗室の静けさに溶けていた。


     * * *


 現像が終わって、フィルムを水洗いした。

 ハンガーに吊るして、乾燥させる間、実結は部室の椅子に座った。

 窓の外に、四月の午後があった。

 空の色が変わっていた。四月の初めの薄青鈍うすあおにびから、少し温度の上がった白群びゃくぐんへ。雲の質が柔らかくなっていた。まだ春とは言えない。でも、冬でもなくなっていた。


 スマートフォンを取り出した。

 電波はない。通知はない。

 日付だけが、画面に光っていた。

 1998年4月。


 2030年の四月は、どうなっているだろうと思った。

 文京学園の新学期が始まっているはずだった。クラス替えがあって、新しいグループトークが立ち上がっているはずだった。実結のいない、新しい「みんな」が、もう動いているはずだった。

 怖いかと思った。

 少し、怖かった。

 でも、一ヶ月前ほどの重さではなかった。

 1998年の四月が、実結の中に積み重なっていたからだと思った。喫茶小鳥遊の琥珀色の灯り。健三の炒飯の温度。紀子の「似合ってる」という一言。沙織の手の温かさ。美穂の「いるね」という声。五味先生の舌打ちと、静かな頷き。佳奈の、朝の太陽のような笑い方。

 全部が、この一ヶ月で実結の中に入ってきていた。

 2030年の怖さを、押しつぶすのではなく、ただ、横に置けるくらいには。


     * * *


 フィルムが乾いた。

 引き伸ばし機にセットして、コマを一つひとつ確かめた。

 ライトボックスに透かして見ると、ネガの中に一ヶ月が並んでいた。

 喫茶小鳥遊の窓から見た雪の商店街。健三が空を見上げている後ろ姿。紀子がカウンターに皿を並べている横顔。屋上から見た東札幌の夕暮れ。線路沿いの、枯れた草と銀灰ぎんかい色のレール。佳奈と有栖の後ろ姿、二人の間の空間。

 全部、見たくて撮ったものだった。

 逃げるために切ったシャッターは、一枚もなかった。

 一コマ、実結の目が止まった。

 暗室の窓から差し込む光が、引き伸ばし機に当たっているコマだった。機材と光だけが写っていた。人も、景色もなかった。ただ光が、暗室の道具の上に落ちていた。

 いつ撮ったか、すぐに思い出した。

 写真部に入った最初の日、一人で部室に残った夕方だった。

 実結はそのコマをキャリアにセットした。


     * * *


 引き伸ばし機のランプを点けた。

 台の上に、光が投影された。

 引き伸ばし機の柱。現像トレイの縁。壁に貼られた露光時間表の端。そして、窓から差し込んでいた光の軌跡が、斜めに横切っていた。

 ピントを合わせた。光の軌跡が、鮮明になった。

 光の軌跡を、測った。

 暗室の道具でも、壁でも、窓でもなく、光そのものを。

 露光時間を決めた。スイッチを入れた。タイマーが秒を刻んだ。

 止め時を、待った。

 今だと思った瞬間に、スイッチを切った。

 印画紙を、現像液に沈めた。


     * * *


 像が、浮かんできた。

 暗室の道具の輪郭が、まず現れた。それから、光の軌跡が浮かび上がってきた。斜めに横切る、やわらかい光の筋。暗室の中に確かにあった光が、印画紙の上に定着していった。

 止め時だと思った。停止液に移した。

 作業灯の下で、完成した写真を見た。

 暗い背景の中に、光の筋が走っていた。暗室の道具が、その光に縁取られていた。暗いから、光が際立っていた。光があるから、暗さが意味を持っていた。

 実結は、その写真を長い間、見ていた。

 暗室に入った最初の日、停止液の匂いで目が覚めた時は、何も見えなかった。緋色の光だけがあって、匂いだけがあって、怖さだけがあった。

 今は、暗室の中の光が見えた。

 見えるようになっていた。

 それは、一ヶ月かけて、少しずつ起きていたことだった。現像されるまで見えなかったものが、時間をかけて浮かび上がってくるように。


     * * *


 部室の扉が開いた。

 佳奈が戻ってきた。

 OM-4Tiを首に下げて、頬が冷気で赤くなっていた。外を歩き回ってきた顔だった。


「何してたの」と佳奈は言った。

「現像してた。それと、一枚焼いた」

「見せて」


 実結は印画紙を渡した。

 佳奈は受け取って、作業灯の下で見た。

 しばらく見ていた。


「暗室を撮ったんだ」と佳奈は言った。

「うん」

「なんで」

 実結は少し考えた。

「自分がここに来た場所だから。最初に目が覚めた場所だから」


 佳奈が実結を見た。


 何かを聞こうとして、でも聞かなかった。最初に目が覚めた場所、という言葉の意味を、佳奈はまだ知らなかった。でも何かを感じ取ったような顔をした。写真を撮る人間の、感受性のある顔をした。


「いい写真だよ」と佳奈は言った。

「ほんとに?」

「光がちゃんと見えてる」


 光が、ちゃんと見えている。

 実結はその言葉を受け取った。

 春休みにここへ来た時、実結は何も見えていなかった。透明なまま、誰にも届かなかった。でも今、光がちゃんと見えていると、佳奈に言われた。


     * * *


 窓の外に、四月の夕暮れが広がっていた。

 あかね色の空が、東札幌の街を照らしていた。商店街の屋根が、金茶きんちゃ色に輝いていた。一ヶ月前は雪の下にあった景色が、光の中に出てきていた。


「佳奈」と実結は言った。

「うん」

「ありがとう」


 何に対してかは、言わなかった。言わなくていいと思った。

 佳奈は「何が?」と聞かなかった。

 ただ「うん」と言って、OM-4Tiのレンズキャップを外した。

 夕暮れの光の中に、レンズを向けた。

 シャッターを切る音がした。

 実結も、OM-40を手に取った。

 同じ窓の外に、レンズを向けた。

 二台のシャッター音が、ほぼ同時に落ちた。

 フィルムカウンターが、「24」になった。

 一ヶ月分の光が、フィルムの中に眠っていた。現像されるまで見えない。でも確かに、そこにあった。


     * * *


 その夜、客間に戻って、実結は布団の上に座った。

 スマートフォンを手に持った。

 電波はない。通知はない。

 でも実結は、その画面を怖いとは思わなかった。

 画面の向こうに、2030年があった。グループトークがあって、タグのない写真があって、透明になっていくような怖さがあった。全部、まだそこにあるはずだった。

 でも今夜の実結には、この一ヶ月があった。

 停止液の匂いで目が覚めた夜から、四月の終わりまで。誰かに手を握られて、炒飯を食べて、暗室で光を見て、線路を撮って、一枚ずつシャッターを切ってきた、この一ヶ月が。

 現像されるまで見えなかったものが、少しずつ浮かび上がってきた一ヶ月が。

 実結は画面を伏せた。

 布団に潜り込んだ。

 窓の外で、東札幌の夜が静かに深まっていた。

 春が、確かにそこまで来ていた。

 桜はまだだった。札幌の桜は、もう少し先だった。でも空気の中に、冬が終わろうとしている予感があった。

 実結は目を閉じた。

 明日も、シャッターを切ろうと思った。

 見たいものを探して、光を測って、止め時を自分で決めて。

 フィルムカウンターが、何を指していても。


     * * *


第一章 了

 第一章では、実結がこの街と、人と、光に触れていく過程を書きました。

 透明だった彼女が、シャッターを切るたびに少しずつ輪郭を持っていく。

 フィルムカウンターの数字のように、季節も、感情も、静かに積み重なっていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ