第17話 四月の終わり、現像された光
暗室の中では、すぐには見えないものがあります。
光も、輪郭も、感情も、時間をかけて少しずつ浮かび上がってくる。
これは実結が「見えるようになるまで」の、最初の一ヶ月の記録です。
四月の最後の土曜日、実結は一人で暗室に入った。
佳奈は朝から外に撮影に出ていた。久は鉄道の撮影で江別まで行くと言っていた。沙織と美穂は、街に買い物に行った。部室には実結だけが残っていた。
引き戸を閉めた。
緋色の世界が、戻ってきた。
停止液の匂いが、鼻の奥に届いた。最初に嗅いだ時の、あの刺々しい刺激は、もうなかった。ただ、ここにある匂いとして、肺に入ってきた。
現像するフィルムが、手の中にあった。
喫茶小鳥遊に来てから、学校に通い始めてから、少しずつ撮り溜めてきたフィルム。OM-40のフィルムカウンターは、今日の時点で「23」を指していた。
二十三枚。
三月の終わりから、四月の終わりまで。一ヶ月の間に、実結が撮りたいと思ったものの数。
現像タンクに、フィルムを装填した。暗袋の中で手探りで進める作業を、実結は今では怖がらなかった。見えない中で手を動かすことに、少し慣れていた。
* * *
現像液を注いで、タイマーをセットした。
攪拌を始めた。
規則的なリズムで、タンクを傾けた。佳奈がいつもしていた動作。体に馴染んだ動作になるには、まだ遠かった。でも最初の頃よりは、迷いが減っていた。
攪拌をしながら、実結は暗室の中を見渡した。
引き伸ばし機。現像トレイ。壁の露光時間表。安全灯の緋色。
この部屋で目が覚めた夜から、一ヶ月が経っていた。
あの夜、実結は停止液の匂いで目が覚めた。扉を素通りして、廊下につんのめって飛び出して、誰にも認識されなかった。透明なまま、夜の学校を彷徨って、屋上の端で膝を抱えていた。
今は、暗室に一人でいられる。
タンクを傾けるリズムが、暗室の静けさに溶けていた。
* * *
現像が終わって、フィルムを水洗いした。
ハンガーに吊るして、乾燥させる間、実結は部室の椅子に座った。
窓の外に、四月の午後があった。
空の色が変わっていた。四月の初めの薄青鈍から、少し温度の上がった白群へ。雲の質が柔らかくなっていた。まだ春とは言えない。でも、冬でもなくなっていた。
スマートフォンを取り出した。
電波はない。通知はない。
日付だけが、画面に光っていた。
1998年4月。
2030年の四月は、どうなっているだろうと思った。
文京学園の新学期が始まっているはずだった。クラス替えがあって、新しいグループトークが立ち上がっているはずだった。実結のいない、新しい「みんな」が、もう動いているはずだった。
怖いかと思った。
少し、怖かった。
でも、一ヶ月前ほどの重さではなかった。
1998年の四月が、実結の中に積み重なっていたからだと思った。喫茶小鳥遊の琥珀色の灯り。健三の炒飯の温度。紀子の「似合ってる」という一言。沙織の手の温かさ。美穂の「いるね」という声。五味先生の舌打ちと、静かな頷き。佳奈の、朝の太陽のような笑い方。
全部が、この一ヶ月で実結の中に入ってきていた。
2030年の怖さを、押しつぶすのではなく、ただ、横に置けるくらいには。
* * *
フィルムが乾いた。
引き伸ばし機にセットして、コマを一つひとつ確かめた。
ライトボックスに透かして見ると、ネガの中に一ヶ月が並んでいた。
喫茶小鳥遊の窓から見た雪の商店街。健三が空を見上げている後ろ姿。紀子がカウンターに皿を並べている横顔。屋上から見た東札幌の夕暮れ。線路沿いの、枯れた草と銀灰色のレール。佳奈と有栖の後ろ姿、二人の間の空間。
全部、見たくて撮ったものだった。
逃げるために切ったシャッターは、一枚もなかった。
一コマ、実結の目が止まった。
暗室の窓から差し込む光が、引き伸ばし機に当たっているコマだった。機材と光だけが写っていた。人も、景色もなかった。ただ光が、暗室の道具の上に落ちていた。
いつ撮ったか、すぐに思い出した。
写真部に入った最初の日、一人で部室に残った夕方だった。
実結はそのコマをキャリアにセットした。
* * *
引き伸ばし機のランプを点けた。
台の上に、光が投影された。
引き伸ばし機の柱。現像トレイの縁。壁に貼られた露光時間表の端。そして、窓から差し込んでいた光の軌跡が、斜めに横切っていた。
ピントを合わせた。光の軌跡が、鮮明になった。
光の軌跡を、測った。
暗室の道具でも、壁でも、窓でもなく、光そのものを。
露光時間を決めた。スイッチを入れた。タイマーが秒を刻んだ。
止め時を、待った。
今だと思った瞬間に、スイッチを切った。
印画紙を、現像液に沈めた。
* * *
像が、浮かんできた。
暗室の道具の輪郭が、まず現れた。それから、光の軌跡が浮かび上がってきた。斜めに横切る、やわらかい光の筋。暗室の中に確かにあった光が、印画紙の上に定着していった。
止め時だと思った。停止液に移した。
作業灯の下で、完成した写真を見た。
暗い背景の中に、光の筋が走っていた。暗室の道具が、その光に縁取られていた。暗いから、光が際立っていた。光があるから、暗さが意味を持っていた。
実結は、その写真を長い間、見ていた。
暗室に入った最初の日、停止液の匂いで目が覚めた時は、何も見えなかった。緋色の光だけがあって、匂いだけがあって、怖さだけがあった。
今は、暗室の中の光が見えた。
見えるようになっていた。
それは、一ヶ月かけて、少しずつ起きていたことだった。現像されるまで見えなかったものが、時間をかけて浮かび上がってくるように。
* * *
部室の扉が開いた。
佳奈が戻ってきた。
OM-4Tiを首に下げて、頬が冷気で赤くなっていた。外を歩き回ってきた顔だった。
「何してたの」と佳奈は言った。
「現像してた。それと、一枚焼いた」
「見せて」
実結は印画紙を渡した。
佳奈は受け取って、作業灯の下で見た。
しばらく見ていた。
「暗室を撮ったんだ」と佳奈は言った。
「うん」
「なんで」
実結は少し考えた。
「自分がここに来た場所だから。最初に目が覚めた場所だから」
佳奈が実結を見た。
何かを聞こうとして、でも聞かなかった。最初に目が覚めた場所、という言葉の意味を、佳奈はまだ知らなかった。でも何かを感じ取ったような顔をした。写真を撮る人間の、感受性のある顔をした。
「いい写真だよ」と佳奈は言った。
「ほんとに?」
「光がちゃんと見えてる」
光が、ちゃんと見えている。
実結はその言葉を受け取った。
春休みにここへ来た時、実結は何も見えていなかった。透明なまま、誰にも届かなかった。でも今、光がちゃんと見えていると、佳奈に言われた。
* * *
窓の外に、四月の夕暮れが広がっていた。
茜色の空が、東札幌の街を照らしていた。商店街の屋根が、金茶色に輝いていた。一ヶ月前は雪の下にあった景色が、光の中に出てきていた。
「佳奈」と実結は言った。
「うん」
「ありがとう」
何に対してかは、言わなかった。言わなくていいと思った。
佳奈は「何が?」と聞かなかった。
ただ「うん」と言って、OM-4Tiのレンズキャップを外した。
夕暮れの光の中に、レンズを向けた。
シャッターを切る音がした。
実結も、OM-40を手に取った。
同じ窓の外に、レンズを向けた。
二台のシャッター音が、ほぼ同時に落ちた。
フィルムカウンターが、「24」になった。
一ヶ月分の光が、フィルムの中に眠っていた。現像されるまで見えない。でも確かに、そこにあった。
* * *
その夜、客間に戻って、実結は布団の上に座った。
スマートフォンを手に持った。
電波はない。通知はない。
でも実結は、その画面を怖いとは思わなかった。
画面の向こうに、2030年があった。グループトークがあって、タグのない写真があって、透明になっていくような怖さがあった。全部、まだそこにあるはずだった。
でも今夜の実結には、この一ヶ月があった。
停止液の匂いで目が覚めた夜から、四月の終わりまで。誰かに手を握られて、炒飯を食べて、暗室で光を見て、線路を撮って、一枚ずつシャッターを切ってきた、この一ヶ月が。
現像されるまで見えなかったものが、少しずつ浮かび上がってきた一ヶ月が。
実結は画面を伏せた。
布団に潜り込んだ。
窓の外で、東札幌の夜が静かに深まっていた。
春が、確かにそこまで来ていた。
桜はまだだった。札幌の桜は、もう少し先だった。でも空気の中に、冬が終わろうとしている予感があった。
実結は目を閉じた。
明日も、シャッターを切ろうと思った。
見たいものを探して、光を測って、止め時を自分で決めて。
フィルムカウンターが、何を指していても。
* * *
第一章 了
第一章では、実結がこの街と、人と、光に触れていく過程を書きました。
透明だった彼女が、シャッターを切るたびに少しずつ輪郭を持っていく。
フィルムカウンターの数字のように、季節も、感情も、静かに積み重なっていきます。




