第18話 五月の手触り
四月の光がゆっくり溶けて、
実結の世界に五月の匂いが入り始めます。
写真部のリズムが体に馴染み、
暗室の赤い光が“日常”になっていく頃。
そこへ、ひとりの「音を集める人間」が現れます。
光と影の境界線が動くように、
実結の世界も少しずつ形を変えていく──
そんな“五月の手触り”の話です。
五月になった。
札幌の五月は、東京よりずっと遅い春だった。
GWに入っても、朝の空気はまだ冷えていた。
でも光の質が変わっていた。
四月の光は遠慮がちに斜めから来ていたが、五月の光は少し高くなって、
街を上から押さえるように差してきた。
商店街の屋根の色が、午後になると違って見えた。
冬の間くすんでいたものが、光を受けて素材の色を取り戻していく感じがした。
写真部の活動が、実結の中で日常になっていた。
火曜日は現像の日、
木曜日は焼き付けの日、
土曜日は撮影の日、
という体内リズムができていた。
部室の暗室の匂いを、鼻が覚えていた。
引き戸を閉めた瞬間に、体が切り替わる感覚ができていた。
* * *
その木曜日の放課後、実結が暗室で焼き付けの作業をしていると、
引き戸の外から声がした。
「あの、すみません」
知らない男の声だった。
実結は引き戸を少し開けた。
廊下に、見知らぬ男子が立っていた。
二年生か三年生か、判断がつかなかった。
細い体に、大きめのヘッドフォンを首にかけていた。
手に、ICレコーダーを持っていた。
「写真部の人ですか」
「そうだけど」
「暗室の音、録らせてもらえませんか」と男子は言った。
「放送部で、学校の音を集めてて。暗室の音が欲しくて」
実結は少し考えた。
「顧問の先生に聞いてみてください。五味先生に」
「もう聞きました」と男子は言った。「変なことしないなら、いいわよって」
実結は引き戸を大きく開け、半身を引いて招き入れた。
「どうぞ」
* * *
男子は瀬川拓真と名乗った。
二年生だった。
放送部に所属していて、
学校内の様々な音を録音して保存しているのだと言った。
「なんで暗室の音が欲しいの?」と実結は聞いた。作業を続けながら。
「消える音だから」と瀬川は言った。ICレコーダーを静かに持ちながら。
「暗室って、これから減っていくじゃないですか。
デジタルカメラが普及したら、フィルムの現像をしなくなる。
そうなったらこの音も、なくなる」
「なくなる前に録る?」と実結は尋ねた。
「はい」
なくなる前に撮っておきたい、と言っていた佳奈の言葉と、
同じことを言っていると思った。
カメラで撮る佳奈と、レコーダーで音を録る瀬川。
道具は違うけれど、向いている方向が似ていた。
「何の音が一番好き?」と実結は聞いてみた。
「現像液に印画紙を沈める音」と瀬川はすぐに答えた。
「あの、ちゃぷ、って音。液体の中に固体が入る時の、抵抗の音」
実結は印画紙を現像液に沈めた。
ちゃぷ、という音がした。
瀬川がICレコーダーにつないだマイクをそっと近づけた。
緋色の光の中で、二人は黙って、像が浮かび上がってくるのを見ていた。
* * *
作業が終わって、実結が引き戸を開けると、部室に佳奈が来ていた。
瀬川を見て、「あ、瀬川じゃん」と言った。
「知り合い?」と実結は聞いた。
「同じクラス。去年も」と佳奈は言った。それから瀬川に向かって尋ねる。
「今日は、何録ってたの?」
「暗室の音」と瀬川は答えた。
「また?」と佳奈は言った。呆れているのではなく、知っていることとして言った。
「また、ってことはよく来るの?」と実結は聞いた。
「去年も来てた」と佳奈は言った。
「机の引き出しの音とか、チョークの音とか、給水器の音とか。
学校中の音を録って歩いてるんだよ、この人」
瀬川が「一応、放送部の活動なので」と言った。
「放送部って、そういうことするの?」と実結は聞いた。
「普通はしない」と佳奈はあっさり言った。
「でも五味ちゃんが毎回許可出してるから、止められない」
五味先生が許可を出している理由は、聞かなかった。
でも聞かなくても、なんとなくわかる気がした。
五味先生も、消えていくものを残しておきたいと思っている人だから。
* * *
帰り道、実結は一人で商店街を歩いていた。
佳奈は、部室に残って焼き付けを続けると言っていたので、学校で別れた。
夕暮れの光が、商店街の西側の建物を照らしていた。
錆朱色のレンガ調の外壁が、夕光を受けて深みを増していた。
実結はOM-40を構えた。
建物の壁を、フレームに入れる。
光の当たっている部分と、影になっている部分の、境界線を探した。
その境界線が、夕光の角度によって、少しずつ動いていた。
止め時を、待った。
今だと思った瞬間に、シャッターを切った。
乾いた軽い音が、夕暮れの商店街に落ちた。
OM-40のフィルムカウンターが、また一つ進んだ。
* * *
喫茶小鳥遊に戻ると、健三がカウンターでコーヒーを淹れていた。
「今日は何を撮った?」と健三は聞いたくれた。
「レンガの壁です」と実結は答えた。
「壁か」と健三は繰り返した。
「光と影の境界線が動くのが面白くて......」
「そうか」と健三は言った。コーヒーを落としながら。
「境界線は、動くから面白いんだ。止まってたら、ただの壁だからな」
実結はその言葉を、胸の中で転がした。
境界線は、動くから面白い。
自分が今いる場所も、境界線の上にあると思った。
1998年と2030年の間。
知っていることと、知らないことの間。
過去と、自分の未来の間。
どちらでもない場所に、実結は立っていた。
でもその場所が、悪くなかった。
「おかえり」と紀子がキッチンから顔を出して言った。
「ただいま」と実結は応える。
コーヒーの甘く苦い匂いが、店内に満ちていた。
琥珀色の灯りが、夕暮れの中でひときわ温かかった。
五月の光は、
実結の中にあった“見えない境界線”を
そっと照らし始めます。
瀬川が録った「消える音」。
健三が言った「動く境界線」。
そして、喫茶小鳥遊の灯り。
どれも、これから実結が向き合う
“気づき”の前触れのように思えます。
次の話では、
光の奥にある“化学”が、
実結の心をもう一段深く照らします。




