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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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18/41

第18話 五月の手触り

四月の光がゆっくり溶けて、

実結の世界に五月の匂いが入り始めます。


写真部のリズムが体に馴染み、

暗室の赤い光が“日常”になっていく頃。

そこへ、ひとりの「音を集める人間」が現れます。


光と影の境界線が動くように、

実結の世界も少しずつ形を変えていく──

そんな“五月の手触り”の話です。

 五月になった。


 札幌の五月は、東京よりずっと遅い春だった。

 GWに入っても、朝の空気はまだ冷えていた。


 でも光の質が変わっていた。

 四月の光は遠慮がちに斜めから来ていたが、五月の光は少し高くなって、

 街を上から押さえるように差してきた。

 商店街の屋根の色が、午後になると違って見えた。

 冬の間くすんでいたものが、光を受けて素材の色を取り戻していく感じがした。


 写真部の活動が、実結の中で日常になっていた。


 火曜日は現像の日、

 木曜日は焼き付けの日、

 土曜日は撮影の日、

 という体内リズムができていた。

 部室の暗室の匂いを、鼻が覚えていた。

 引き戸を閉めた瞬間に、体が切り替わる感覚ができていた。


     * * *


 その木曜日の放課後、実結が暗室で焼き付けの作業をしていると、

 引き戸の外から声がした。


「あの、すみません」


 知らない男の声だった。

 実結は引き戸を少し開けた。


 廊下に、見知らぬ男子が立っていた。

 二年生か三年生か、判断がつかなかった。

 細い体に、大きめのヘッドフォンを首にかけていた。

 手に、ICレコーダーを持っていた。


「写真部の人ですか」

「そうだけど」

「暗室の音、録らせてもらえませんか」と男子は言った。

「放送部で、学校の音を集めてて。暗室の音が欲しくて」


 実結は少し考えた。


「顧問の先生に聞いてみてください。五味先生に」

「もう聞きました」と男子は言った。「変なことしないなら、いいわよって」


 実結は引き戸を大きく開け、半身を引いて招き入れた。


「どうぞ」


     * * *


 男子は瀬川拓真と名乗った。


 二年生だった。

 放送部に所属していて、

 学校内の様々な音を録音して保存しているのだと言った。


「なんで暗室の音が欲しいの?」と実結は聞いた。作業を続けながら。


「消える音だから」と瀬川は言った。ICレコーダーを静かに持ちながら。

「暗室って、これから減っていくじゃないですか。

 デジタルカメラが普及したら、フィルムの現像をしなくなる。

 そうなったらこの音も、なくなる」


「なくなる前に録る?」と実結は尋ねた。

「はい」


 なくなる前に撮っておきたい、と言っていた佳奈の言葉と、

 同じことを言っていると思った。

 カメラで撮る佳奈と、レコーダーで音を録る瀬川。

 道具は違うけれど、向いている方向が似ていた。


「何の音が一番好き?」と実結は聞いてみた。


「現像液に印画紙を沈める音」と瀬川はすぐに答えた。

「あの、ちゃぷ、って音。液体の中に固体が入る時の、抵抗の音」


 実結は印画紙を現像液に沈めた。

 ちゃぷ、という音がした。


 瀬川がICレコーダーにつないだマイクをそっと近づけた。


 緋色の光の中で、二人は黙って、像が浮かび上がってくるのを見ていた。


     * * *


 作業が終わって、実結が引き戸を開けると、部室に佳奈が来ていた。


 瀬川を見て、「あ、瀬川じゃん」と言った。


「知り合い?」と実結は聞いた。

「同じクラス。去年も」と佳奈は言った。それから瀬川に向かって尋ねる。

「今日は、何録ってたの?」


「暗室の音」と瀬川は答えた。

「また?」と佳奈は言った。呆れているのではなく、知っていることとして言った。

「また、ってことはよく来るの?」と実結は聞いた。


「去年も来てた」と佳奈は言った。

「机の引き出しの音とか、チョークの音とか、給水器の音とか。

 学校中の音を録って歩いてるんだよ、この人」


 瀬川が「一応、放送部の活動なので」と言った。


「放送部って、そういうことするの?」と実結は聞いた。


「普通はしない」と佳奈はあっさり言った。

「でも五味ちゃんが毎回許可出してるから、止められない」


 五味先生が許可を出している理由は、聞かなかった。


 でも聞かなくても、なんとなくわかる気がした。

 五味先生も、消えていくものを残しておきたいと思っている人だから。


     * * *


 帰り道、実結は一人で商店街を歩いていた。


 佳奈は、部室に残って焼き付けを続けると言っていたので、学校で別れた。


 夕暮れの光が、商店街の西側の建物を照らしていた。

 錆朱さびしゅ色のレンガ調の外壁が、夕光を受けて深みを増していた。


 実結はOM-40を構えた。

 建物の壁を、フレームに入れる。

 光の当たっている部分と、影になっている部分の、境界線を探した。

 その境界線が、夕光の角度によって、少しずつ動いていた。


 止め時を、待った。

 今だと思った瞬間に、シャッターを切った。


 乾いた軽い音が、夕暮れの商店街に落ちた。

 OM-40のフィルムカウンターが、また一つ進んだ。


     * * *


 喫茶小鳥遊に戻ると、健三がカウンターでコーヒーを淹れていた。


「今日は何を撮った?」と健三は聞いたくれた。

「レンガの壁です」と実結は答えた。

「壁か」と健三は繰り返した。

「光と影の境界線が動くのが面白くて......」

「そうか」と健三は言った。コーヒーを落としながら。

「境界線は、動くから面白いんだ。止まってたら、ただの壁だからな」


 実結はその言葉を、胸の中で転がした。

 境界線は、動くから面白い。


 自分が今いる場所も、境界線の上にあると思った。

 1998年と2030年の間。

 知っていることと、知らないことの間。

 過去と、自分の未来の間。


 どちらでもない場所に、実結は立っていた。

 でもその場所が、悪くなかった。


「おかえり」と紀子がキッチンから顔を出して言った。

「ただいま」と実結は応える。


 コーヒーの甘く苦い匂いが、店内に満ちていた。

 琥珀こはく色の灯りが、夕暮れの中でひときわ温かかった。

五月の光は、

実結の中にあった“見えない境界線”を

そっと照らし始めます。


瀬川が録った「消える音」。

健三が言った「動く境界線」。

そして、喫茶小鳥遊の灯り。


どれも、これから実結が向き合う

“気づき”の前触れのように思えます。


次の話では、

光の奥にある“化学”が、

実結の心をもう一段深く照らします。

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