第19話 化学式の詩
五月の光が、教室の床にゆっくり四角を描く時間。
その光の動きを測りながら、実結は“見えないもの”の存在に触れていきます。
五味先生の化学の授業は、
暗室とは違う形で「還元」という言葉を実結に渡します。
それは、
見えなかったものが、見えるようになる
という、この物語の核心に触れる言葉。
光と化学が重なり、
実結の視界がまたひとつ深くなる──
そんな一話です。
五味先生の化学の授業は、二年三組の三時間目にあった。
窓から差し込む光が、教室の床に斜めの四角をつくる時間だった。
実結はその四角が、授業の間にどこまで移動するかを、ときどき測っていた。
光は確実に動いていた。止まっているように見えて、
一時間後には全然違う場所にあった。
五味先生は教壇に立つと、白衣の裾をひとつ引いて、チョークを持った。
「今日は酸化還元反応」と五味先生は言った。
「酸化、と聞いて何を思い浮かべる?」
橘が「錆びる」と言った。
「そう。鉄が酸素と結びついて、酸化鉄になる。これが酸化」と五味先生は言った。黒板に式を書きながら。「では還元は?」
誰も答えなかった。
「逆よ」と五味先生は言った。「酸化されたものが、元の状態に戻る。酸素を失って、本来の姿に戻る」
チョークが黒板を走る音が、教室に響いた。
「還元というのはね、隠れていたものが表に出てくること。酸化されていた物質が電子を受け取って、本来の姿に戻る。見えなかったものが、見えるようになるのよ」
実結は、ペンを持つ手を止めた。
「フィルム現像も、原理は同じ。露光によって潜像——目に見えない像——が形成されている。現像液の中の還元剤が、それを目に見える銀粒子に変換する。化学の言葉で言えば、現像とは還元反応なの」
教室のどこかで、誰かがノートを取る音がした。
実結は五味先生を見ていた。
授業をしている五味先生の目は、いつもの暗室の目とは少し違った。
でも同じ方向を向いていた。
見えないものを、見えるようにすることへの、静かな敬意のある目だった。
* * *
授業が終わって、廊下に出た。
実結が水飲み場へ向かおうとすると、後ろから声がした。
「麻倉さん」
振り向くと、五味先生が白衣のポケットに手を入れて立っていた。
「はい」
「さっきの授業、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてました」
「どこが一番、面白かった?」と五味先生は聞いた。試すような言い方ではなく、ただ聞きたいから聞いている感じで。
「還元のところ」と実結は言った。「見えなかったものが、見えるようになるって言い方が」
「そうね」と五味先生は言った。「一点が変わると、全体が変わる。化学ではよくあることよ」
「現像と同じ原理だって、初めて言葉でわかった気がして」と実結は言った。「今まで手でやってたことの、理由がわかった感じがして」
五味先生が、ほんの少し目を細めた。
「自分をよく見てるじゃない。それは大事なことよ」と五味先生は言った。そのまま職員室の方へ歩いていった。
実結は廊下に立ったまま、その背中を見送った。
廊下の窓から、五月の光が差し込んでいた。
* * *
放課後、部室で実結は焼き付けの作業をしていた。
佳奈が隣のライトボックスでネガを確認しながら、ぼんやりと言った。
「五味ちゃんの授業、今日何やった?」
「酸化還元」
「あー、あれね」と佳奈は言った。「去年やった。現像と同じって話でしょ」
「知ってたの?」
「知ってたというか、五味ちゃんが毎年同じところで同じ話するんだって、先輩から聞いてた」と佳奈は言った。「化学の教師が写真部の顧問やってる理由って、そのへんにあるんじゃないかなって思って」
「どういう意味?」と実結は聞いた。
「写真って化学だから」と佳奈は言った。あっさりと。「光と薬品と時間の、化学。五味ちゃんはそれが好きなんじゃないかな。教えるのが化学で、趣味も化学で、みたいな」
実結は印画紙を現像液に沈めながら、考えた。
五味先生が写真部の顧問をしているのは、村瀬写真館の出身だからだと思っていた。でも佳奈の言い方は、別の角度から同じことを見ていた。
「佳奈は、写真を化学だと思って撮ってる?」と実結は聞いた。
「思ってない」と佳奈は即答した。「撮りたいから撮ってる。でも現像する時は化学だって思う。暗室に入ったら化学。撮る時は、化学じゃない」
像が、浮かび上がってきた。
線路の写真だった。
レールが光を受けて白く伸びていた。
「いいね」と佳奈が覗き込んで言った。
「五月になって撮ったやつ」と実結は言った。
「光が変わったね」と佳奈は言った。「四月の時と違う。五月の光だ」
実結は印画紙を停止液に移しながら、佳奈を見た。
「わかるの、四月と五月の光の違いが」
「わかる」と佳奈は言った。「光は、日付を持ってるから」
日付を持つ光。
その言葉が、実結の中に、静かに落ちた。
* * *
その夜、客間で実結は焼き上がった写真を並べた。
線路の写真。商店街の壁の写真。屋上から見た夕暮れの写真。佳奈と有栖の後ろ姿。久がしゃがんで線路を見ている横顔。
全部、五月に入ってから撮ったものだった。
四月に撮ったものと、並べて見た。
はっきり言えないが違いがあった。
うまく言葉にならなかった。でも確かに、違った。
光の角度が違う。影の長さが違う。空気の温度が違う。
写真は、撮った日付を持っていた。
佳奈が言った通りだと思った。
実結は写真を一枚ずつ、丁寧に重ねた。
スマートフォンの画面を点けた。電波はない。通知はない。バッテリーは、32%のままだった。
日付だけが、画面に光っていた。
1998年5月。
実結は画面を伏せて、布団に入った。
窓の外で、五月の夜が静かに深まっていた。
五味先生の「還元」という言葉は、
実結の中で静かに沈殿し、
やがて“気づき”へ向かう前触れになります。
光は日付を持ち、
写真は時間を抱え、
人の心もまた、ゆっくりと変化していく。
四月と五月の光の違いに気づいた実結は、
もう“見える側”へ歩き始めています。
この先で彼女が触れるものも、
きっと少しずつ形を変えていくのでしょう。
次の話では、
その変化がさらに深い場所へ沈んでいきます。




